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196 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 07:43:57.24
もともと列島東部では狩猟が非常に盛んであり、それを背景として東国には広大な「牧」が設定されていました。
ですから人々は家の厩のような身近なところで飼育された牛馬ではなく、牧場を飛び跳ねる野獣に近い馬と接していました。
東の王権、鎌倉幕府はその馬に乗って戦闘する武士の集団によって支えられていたのです。
それ故、東日本の人々は獣を殺し、その肉を食べることについて、西日本の人々のように敏感ではなかったということが出来ると思います。
ケガレの問題については列島東部の社会が鈍感であると前に述べましたが、その背景としてこのような社会の実態があったことが考えられるでしょう。
網野善彦(日本中世史、日本海民史)『歴史を考えるヒント』新潮社(2001年)
197 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/04/24(日) 09:55:26.32
東日本では縄文戦士が武士になれたけど、
西日本では悲惨な境遇に落とされたんだと思う。
網野善彦はたくみに明言を避けてたけど、戦後に
小浜基次なんかが西日本の小集落の頭長指数について
データを示している。
つまり東日本人は縄文子孫ってのはわかる。
しかし西日本が狩猟を拒否したわけではない。
奈良以降の仏教隆盛が西日本人の心を歪ませたんだ。