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<大阪第四師団の輝かしい戦歴>
関幸輔『現代史研究』第7集より
昭和14年7月、関東軍が北満国境駐屯の仙台、大阪両師団に応急動員下令、出動を命じたとき、
仙台第2師団は勇躍出発、直ちに戦闘加入勇戦奮闘したのに反して、
大阪第4師団は出動下令されるや急病人激増、何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し、
怒った連隊長が医務室へ出向き、自ら軍医の診断に立ち合う始末。
やっと出動部隊を編成したまではよいが、現地までの行軍では大阪師団は1週間を要し、しかも落伍兵続出。
現地にやっと先遣隊が到着したら、日ソ停戦協定成立。
途端に元気が出た浪花っ子の面々、口々に戦闘に間に合わざりしを残念がり、
落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰。
帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった。
太平洋戦争が開始されるや使い場がなく、上海付近でブラブラしながら待機。
昭和17年4月、フィリピン戦線で選抜歩兵連隊と共に増加派兵されることが下令されるや、
このときのバタアン第2次攻撃には、日本軍は強力なる部隊を準備し、本格的な立体攻撃を実施したため、
大阪師団は軍主力の一翼となり、ビクビクしながら進む内に、
弱り切った米比軍が勝手に白旗を掲げて降伏してくれ、またも停戦成立。
始めての勝ち戦に有頂天になったおとぼけ師団の将兵は、
まるで自分達でバタアンを占領したような大法螺を吹きまくり、郷里大阪では号外が出る大騒ぎになった。