10/09/07 11:28:41 0
著名な免疫学者である多田富雄氏の遺作である。「後書き」は、
今年四月に死去する二カ月ほど前に書かれた。そこでは、重度の脳梗塞(のうこうそく)
におかされて以来、唯一動かすことのできた左手でキーボードを叩(たた)
く執筆が、病的鎖骨骨折でついにできなくなった、と告げられている。
「後書き」から本のなかに入っていくのは邪道だとしても、
一冊の本の成り立ちをまず明らかにしておくのは、
なぜここに収められた文章が書かれたのかという問いが、そこから自(おの)
ずと浮かんでくるからである。
『残夢整理--昭和の青春』は、著者にとってとりわけ大切だった人びとの
肖像であり、彼らがもっていた物語である。そしてその人たちとのつきあいは
昭和三十年前後の青春時代に発している。交流から得た影響の大きさは、
とりもなおさず著者にとっての青春時代の意味の大きさということになろうか。
最初の「レ・ゾアゾウ」は、茨城の水海道(みつかいどう)
中学の同級生、N君が何十年ぶりかで夢に出てきたところからはじまる。
姿は、粗末なネルの着物を着た中学生。一言二言聞き取れないことをいって、夢から
去る。
大学受験のころN君は文学青年仲間になり、フランス語でマラルメやボードレールを
口ずさんでくれた。いつの間にか姿を消し、ずっと後に大阪で自転車の窃盗で
逮捕された。その話を聞いた中学の同級生(多田氏はすでに大学教授になっていた)
が減刑の嘆願書を提出する。さらに時が流れ、
著者が定年に近づいたころ、N君から手紙がきた。絶望と自嘲(じちょう)
がつづられ、誇りに満ちた少年の姿はすでにそこにはなかった。
そのような経緯を書いた短い文章の結びは、「これで私の残夢整理は
終わったのだろうか。残夢は、残夢のままがいいのかも知れない」
という一行である。いっぽうでそう思いながら、
自分のなかにある青春の残夢が何であるのか、突きとめようとせずにはいられない。
六章にわけて書かれた回想は、そうした切実さをもっているのである。
「珍紛漢(ちんぷんかん)」という章で語られる永井俊作は、
もっとも強くその切実さに彩られている。
水海道中学の同級生だったが、高校三年のときに偶然東京で出会ってから急速に
親しくなった。多田氏は一浪して千葉大学医学部に進み、
永井俊作は芸大油絵科に入った。俊作は多田氏のやっていた同人雑誌に詩を発表し、
多田氏は俊作がこっていた奈良の古寺めぐりにつきあった。そういうつきあいを、
「二つの離れた円が重なってゆくように、私たちの青春の夢が重なった」と記している。
二人のつきあいを知る人は、あいつらは「精神的ホモ」
と決めつけるほどだったが、昭和五十五年、がんとの凄絶(せいぜつ)
な闘病のすえ、俊作は死去した。多田氏はこのとき四十五、六歳。
URLリンク(mainichi.jp)