10/04/29 18:17:30 6S6mEBVL
多様性というか、一人の人間の価値観を反映した人間関係のあり方もしくは
作法というものがない。そういう関係があってもいいということがわからない
から、我儘・自己中という形で認識されてしまって対立的な状況が生じてしまう。
文脈は不変一定という固定観念が地域的人間関係で受け継がれている。
コンプレックスと解釈されようと、一人の人間が尊重される人間関係のあり方
のモデルは、日本ではやはり都市部に求めるしかないのではないかと思う。
しかしそれは(乱暴な言葉だけど)田舎の文脈では都会かぶれとかかっこつけ
とかいうあつかわれかたをされてしまう。田舎の文脈は、それはそれで現実に
人間の生活を担保できるものであるから、変更しようとか他のやり方もあると
いうことにならないのだろう。
田舎の文脈も一つの方法という意味では否定してはいけない。しかし、それも
やり方のうちの一つであるという認識をどう相手に持ってもらえるかというところ
で、挫折してしまう。生活が成立しているということはやはり大きい。
自己主張とか我儘とかみんなもそうだとか安易な言葉がつかわれていて、
文脈が全体としてどういう価値観なのかという認識が生まれないことが問題。
そうなると、技術的に処理するかやり過ごすかというレベルになってしまう
んだよなあ。
甘えといわれるかもしれないが、成長も、周囲がその人の行動をどのレベル
まで認識して関わってくれるかという影響は見逃せないと思う。
自己責任という言葉も、~はよくないという言葉も、ある環境で生きてきた人
にとって自然なものだろうけど、人の内部的認知がその人の環境によって大きく
左右されるということを認めないで言説をすすめてしまうと、解決が生じない
対立になってしまう。だから裁判があるけど、地方の人の法意識のすくなさは
内部認知の違いに比較的鈍感なことと直結している気がする。
主体性が否定的に取り扱われる地域では、成長において不利だと言っても、甘え
とは違うんじゃないかと思う。誰が何をどう受け止めるかは、その人にとっては
その人の許された生き方の所産だとみんながおもってくれればいい。
が、これは都会の人には甘えというように伝わってしまう。伝えるということ
ということ受け取るということの怖さは、相手の解釈は結局は自分と切り離されて
いることに帰着するのではないかと思う。
自分の文脈の拡張・深化を成長とすれば(仮定)それを認知してくれる周囲が
なければ、そもそもそうしようと言う認識自体生まれないかもしれない。相手の
経緯がわからないネット上で、個人に言及するのはあまり建設的ではない気がする
文章が作成者の文脈を伝える機能はそれほど高くないはずなので。
自分は田舎論を愚痴に終わらないレベルで取り扱えるものとすることには
意味があるという主観でやってます。他人が他人の価値体系で処理してくること
に、「いやそれはあなたがそうしたいからしてるだけでしょ。こうであって
マズイの?と」自然に伝えられるという状況は、ストレスの少ない人間関係
の生成に役立つだろうと漠然と思うのです。人が固有の生をどこまで生きられるのか
という形で問題認識すれば多くの人に伝わる形になりうるのではないかと思う
のです。まあそういう意味では、事態を否定的に述べるだけではマズカッタと
思います。