10/10/13 23:17:09 wv4YhC0k0
近現代の心理学や精神医学は、「精神」という言葉を極めて多用してはいるものの、
朱子学で「性」と呼ばれたり、ヒンズー教や仏教で「アートマン」や「阿頼耶識」と呼ばれてたりしている
純粋精神を一切研究の対象にすらしたことがなく、精神を「知能情報の一種」として扱うに止まっている。
だから精神を分析しようなどとする過ちすら犯しており、それは結局、感情を伴った知能情報としての
犯罪意志を「精神」と呼んでいるだけのことであり、そのような見解と純粋精神とは全く関係がない。
太陽に照らされた月が光を反射して光るように、純粋精神という光源に照らされて、諸々の知能や感情といった
心理構造=情がその姿を明らかにする。意志を伴わない静的な情が「知能」とされる一方で、意志を伴う
動的な情が「感情」として扱われるが、いずれも純粋精神たる性によって照らし出された情であるには変わりなく、
昨今の心理学者や精神科医は、この内の感情のほうを「精神」扱いしていて、そういう意味での精神が
犯罪的な意志を帯びることを「精神異常」や「精神病」として扱っている。しかし、実際には感情は精神ではなく
情の一種なのであり、単なる情報として扱っている知能と同じもの。脳科学では左脳が知能を司り、
右脳が感情を司るなどとも言われているが、知能も感情も構造を伴った情であるには違いなく、
ただ知能のほうが静的なスカラー量であり、感情のほうが動的なベクトル量であるのみ。
脳が精神の根源であるなどというのもとんでもない思い違いであり、純粋精神たる性が照らし出す情を
専門的に司る器官であるだけなのであって、個々の人間にとっての純粋精神の在り処を特定するのなら、
むしろ心臓のほうが相応しい。一切情を扱ってはいないものの、全ての人体構造の存続維持を司る心臓、
その心臓のように、純粋精神は知能とか感情とかいった情報的構造を司ってはいないのであり、
脳みそこそが抱く犯罪意志が、純粋精神と無関係であるか、最も疎遠なものであることだけは確か。