09/05/25 10:10:48 D/ctFjs2
>>42
「資料的価値」というのは2つの側面があると思う。
1つは、作曲家がある時点でまとめたものを少なくとも楽章単位でそっくり
そのまま再現するということ。このシリーズでは第8のアダージョがそれに
あたるだろう。そういった面での「資料的価値」はないといえよう。
もう1つは、ハースの第2や第8のように、資料に基づいているとはいえ、
作曲家のあずかり知らぬでっちあげを含む場合でも、多くの演奏実績に
よって支えられてきたという側面から、受容史的な「資料的価値」が生じる。
この第5がそうなるかはたいへん難しいが、可能性を全く否定することは
できない。
かつて、堤俊作・俊友会がフィナーレの異稿を演奏したとき、キャラガンの
編集したものを使ったのだが、それは他の部分との釣り合いを保つため、
資料にはないバス・テューバを加えた版であった。
(今回は全楽章バス・テューバがないということだ)
そういった試みの延長線上にこの演奏を捉えることがよいのかも知れない。