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■1987年にピークアウトするDRAMシェアと特許出願数
かつて、大手半導体メーカー5社の日立製作所、東芝、NEC、富士通、三菱電機を、ビッグ5と呼んだ。
図1は、ビッグ5の特許出願数合計の推移である。5社ともほとんど同じ傾向を示していたので、
5社合計の特許出願数をプロットした。1987年にピークがあり、その後5年間に特許出願数が激減する。
●図1 URLリンク(jbpress.ismedia.jp)
図2は、国籍別DRAMのシェアの推移である。特許出願数と同じく、日本のシェアは87年にピークがあり、
その後、低下していく。特許出願数とDRAMシェアの傾向が、非常によく似ていることに驚く。
●図2 URLリンク(jbpress.ismedia.jp)
87年は、筆者が日立に入社した年でもある。本連載の最初に書いた通り、その後、筆者は、DRAMの
シェア低下とリンクした技術者人生を送るわけであり、改めて「1987年」が因縁めいた年であると感じた。
図3は、日立の特許料の収支である。83年までは赤字であったが、その後、黒字に転じる。そして、
2000年前後には、500億円を超える収入を記録する。「日立中央研究所の特許部がマスコミに取り上げ
られ一世を風靡した」のはこの頃のことである。
●図3 URLリンク(jbpress.ismedia.jp)
DRAMシェアと特許出願数を急激に伸ばしていた日本が、87年にピークアウトする。一体、87年に、
何が起きたのか?
実はこの年に、2つの事件が同時に起きた。ビッグ5の特許出願数が激減するのはそのためである。
その詳細を以下に示そう。
■1987年に起きた2つの事件:米国の逆襲と特許庁の指導
DRAMを発明したのは米インテルである。黎明期の70年代は、インテルやテキサス・インスツルメンツ
(TI)など米国メーカーがDRAM産業を牽引した。
70年代後半から、日本メーカーがこぞってDRAMに参入し始めた。その際、日本メーカーはインテルや
TIに特許料を払って、DRAMを生産していた。図3において、日立の特許料が赤字であるのはこのことによる。
日本のDRAMは快進撃を続け、83年にシェアで米国を上回り、世界市場を独占するようになる。日本に
シェアで負けた米国メーカーはDRAMから撤退せざるを得なくなった。
DRAMだけでなく半導体全体のシェアでも日本に抜かれた米国は、この状況を危惧した。カラーテレビ
などの家電製品やクルマにおいても日本が躍進し、米国の凋落が顕著だったからである。
まず当時のレーガン大統領は「産業競争力に関する大統領諮問委員会」を設置した。委員長には、当時、
米ヒューレット・パッカードの社長だったジョン・ヤング氏が就任した。数百人の委員が1年半に及ぶ
緻密な調査研究を行い、85年1月、ヤング委員長は「国際競争力と新たな現実」と題する報告書、通称
「ヤング・レポート」を提出した。(※続く)
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