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関西3空港・迷走飛行の経緯・(神戸エゴの歴史)
1968年、関西新空港の検討開始。
1969年、大阪空港周辺地域住民による国を相手に国家賠償請求訴訟。
※国が追い詰められ始める。
1970年、新空港各候補地において、新空港反対決議
1972年、神戸市による新空港反対決議
1973年、伊丹市『大阪国際空港撤去都市』宣言
※国はますます追い詰められる。
1975年、審議会答申により、伊丹の廃止を前提とした位置・規模の空港として、泉州沖が最適と決定。
※この答申は当然ながら後の関空2期も含むもの。つまり関空2期は実質的にこの時期に決定されていた。
1978年、新空港対岸の埋立の検討等により、泉州11市町が順次反対取り下げ
※国にとって、希望の光が見えてきた。
1981年、最高裁にて国に伊丹空港周辺地域住民に対する賠償命令。
※国は司法から待ったなしの状況に追い詰められるが、司法は泉州沖という解決策を示唆してのこと。
1982年、神戸市、一転して「神戸沖空港試案」を提出。
※国も司法にも全くの想定外、時期を逸した後出し試案。
1984年、神戸市は関空への同意表明を交換条件に、神戸沖空港設置計画を位置づけを迫り、まんまと成功。
※待ったなしの状況に追い込まれていた国は、拒絶した場合には数年単位で計画遅延が見込まれる状況下、
国の弱みに付け込んだ神戸市のヤクザまがいの脅迫をイヤイヤながら飲まざるをえなかった。
1987年、泉州沖に関西新空港本体工事着工。
1990年、大阪空港は新空港開港後に国内線限定となる方針を立てる
※当時としては仕方のない判断だったが、今から振り返れば結果論として誤りだった。
1994年、泉州沖に関西国際空港(第1期)が開港。
1999年、神戸空港埋立着工。
※神戸のヤクザまがいの脅迫に屈したものでありどうしようもなかったが、結果として国が空港設置許可を出したのは誤りだった。