コミンテルンat ASIA
コミンテルン - 暇つぶし2ch114:ハリー・デクスター・ホワイト
08/12/31 06:11:02 epc9Cyc4
知られざるインテリジェンスの世界 世界を動かす智恵の戦い
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第2章 情報活動の基本 /雪作戦と日米開戦

 ホワイトに対するソビエトの働きかけは巧妙で、米ソは相互理解と共通の利害関係に結ばれている
とする雰囲気を盛り上げていった。平和の維持と米ソ関係の改善を目指しているかのように思い込ま
せて、その実ソ連の意図を徐々に浸透させていったのであった。そしてホワイトを通してモーゲンソー
を動かし、モーゲンソーの「考え」はルーズベルトに達していたのである。
 ホワイトは理想主義に基づいた戦争の回避を主張しているかに見えるが、実はソビエトの恐れる日本
軍のシベリア進行阻止に加担していたのである。彼がソビエトの意向通りに動いた結果、アメリカは日本
に対して中国からの全面撤兵を要求し、石油の全面禁輸を実施した。これがパールハーバー攻撃を誘
発したとされている。またホワイトは日本の進出を抑える為に、中国に対して多額の借款を与えることも
考えていた。
 当時の状況として、駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーは日本に対する強攻策が戦争を誘発するこ
とになると恐れていたが、国務省の極東部部長のスタンレー・ホーンベックは、日本に支援を与えるのは
間違いで、軍事力で対抗すべきだという意見であった。日米交渉のアメリカ側の当事者はコーデル・ハル
国務長官で、彼が1941年11月26日に日本側が提示した文書に、いわゆるハル・ノートがある。日本側
はこれを最後通牒、つまり事実上の宣戦布告と受け取った結果、この文書が太平洋戦争開戦の切っ掛け
となったことは知られている。このハル・ノートを起草したのはホワイトであるが、本当の発案者はスターリ
ンだという人もいるくらいである。
 後の東京裁判で梅津美治郎被告の弁護人となったベン・ブルース・ブレイクニーは、「もしハル・ノート
のようなものが突きつけられたなら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう」
と発言している。

115:ハリー・デクスター・ホワイト
08/12/31 07:16:45 epc9Cyc4
知られざるインテリジェンスの世界 世界を動かす智恵の戦い
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第2章 情報活動の基本 /雪作戦と日米開戦

 (ヤルタ会談に於いて)ホワイトが作成した財務省提案は、ソ連に巨額の借款を30年間低利子で供与
する。またドイツに要求する予定の200億ドルに上る賠償金の半額をソ連に与えるというものであった。
更にソ連の意に沿って、ドイツの化学、電気、冶金の諸産業を完全に廃止させるということも盛り込んで
いた。
 しかし国務省の反対で、借款とドイツの非産業化は実現しなかった。但しドイツの賠償金に対する提案
は、チャーチルの反対にも関わらず、ルーズベルトが賛意を表しているのである。この様なスパイを味方
に持てば大変心強いが、敵にすれば気づかぬ内に危機的状況に追い込まれる可能性が有る。
 なお、このヤルタ会談について、アメリカのブッシュ大統領は「歴史的誤り」として非難した。2005年
5月7日のことである。

(中略)
 アメリカがソビエトの無線通信に対して行った暗号解読作戦であるヴェノナ(Venona)が明らかにした
ところによると、ソ連の人民内務委員会(NKVD)は、ルーズベルト政権の主要部全てに浸透することに
成功していたのであった。

116:日出づる処の名無し
08/12/31 10:54:29 vz/ypond
今日もコミンテルンからの直接・間接をとわない攻撃を受けた。
どうも家が盗聴されているようだが盗聴器が発見できない。
おそろしいことだがすでに体の中に盗聴器が埋め込まれてるのかもしれない。
コミンテルン日本総司令部の総裁小沢一郎ならやりかねない、悪魔のようなキチガイのような邪悪だ。
電波に毒をもっているからコミンテルンが全部悪い全部全部いじめる無視される、尿が床に漏れる。
コミンテルの悪を証明しなければいけないコミンテルンと戦って日本をまもらなければ自分の身が危ないこれからもっと悪くなる不況もコミンテルンの陰謀だリーマンブラザーズはコミンテルンの下部組織でやつらのせいでクビになったとテレビで言ってた。


117:ルーズベルトとチャーチル
08/12/31 19:50:54 epc9Cyc4
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第1章 戦争の裏側で何が? 9,盗聴されたルーズベルトとチャーチルの交信
 1940年8月 第二次世界大戦 - 基地秘密協定の為の駆逐艦

 1940年5月15日の午後、英国海軍の密使が、一通の文書を新首相の執務室から米国大使館
へ運んだ。大使館の暗号室でその文書は暗号化され、ホワイトハウスの暗号室へ送信され、解読
された上でフランクリン・D・ルーズベルト大統領に手渡された。
 ルーズベルトとチャーチルは、この数ヶ月間密かに連絡を取り合っていた。海軍大臣としてのチャ
ーチルは、ルーズベルトに、大西洋上で巡視している米国海軍艦船が発見したUボート関連の情報
を回してくれるように依頼した。ルーズベルトは直ちにこれに応じた。英国海軍情報部の責任者は
チャーチルに、「米国は既に中立の立場とは言えない」と告げた。ルーズベルトとチャーチルは、共
に米国の中立法違反を見逃していることが公になると米英の関係を損ない、間もなく三期目に立候
補しようとするルーズベルトを政治的に傷つけてしまうことを承知していた。
 両者の秘密交信がドイツに傍受されていることに、二人は気付いていなかった。米国大使館の暗
号室で勤務していたのはタイラー・G・ケントで、彼はルーズベルトとチャーチルとが共に謀って「米国
を密かに参戦させる画策をしている」と信じていた。公然たる反ユダヤ主義者のケントは、ルーズベル
トは”ユダヤの手先”だと思っていた。ロシア生まれのケントの愛人で親ナチ派、アンナ・ウォルコフも
またそう考えた。彼女は帝政ロシア最後の皇后に使えた侍女だった。ケントは文書を写真に撮り、アン
ナに渡した。アンナはその写真をロンドンのイタリア大使館の連絡員に渡した。イタリア大使はその情
報をローマへ転送する。イタリア駐在のドイツ大使は、その情報をベルリンの外務省へ送った。
 ロンドンのブレッチリー公園にある英国の暗号解読部隊の中枢部では、ドイツ外務省の通信を日常
的に傍受し解読していた。5月のある日、ローマからベルリンへ送られる通信の中で、チャーチルへ
送信されたルーズベルトの秘密電文を見て度肝を抜かれた。それには「40隻ないし50隻の老朽駆逐
艦を引き渡すのは可能だが、議会の特別承認を必要とする。現状では、それは容易なことではない」
とあった。

118:スターリンと朝鮮戦争
08/12/31 22:12:08 epc9Cyc4
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第1章 戦争の裏側で何が? 12,スターリンが是認した朝鮮戦争
 1950年4月 朝鮮戦争 - 韓国侵攻でのソ連邦の役割

 1945年8月29日、北朝鮮ハムフンの近くでソ連の戦闘機が、米軍の「超空の要塞」B-29爆撃機
に発砲、強制着陸させた。このB-29は、日本軍が最近放棄したばかりの捕虜収容所に取り残された
連合軍後呂に補給物資を投下する作戦行動中だった。第二次世界大戦はその15日前に終結していた
が、B-29の乗組員たちは新たな戦争が始まったことを知らなかった。それは「冷戦」と呼ばれること
になる。
(中略) 米国とソ連両政府は、軍事境界線(38度線)を設け、ソ連が支援する北朝鮮と米国が支援する韓国
に分離した。
(中略) その頃、米国の情報機関は、金日成に対して韓国を襲撃するように、ソ連がどの程度強く指示してい
るのか理解していなかった。また、中国が金日成の計画に関わっていることにほとんど気付いていなか
った。ソ連と中国の結びつきは、ソ連が崩壊し冷戦が終結、ロシアの記録が歴史家の目に触れるまで、
余り知られていなかった。だがいまや歴史家たちは、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンと中国の指導者
毛沢東が、朝鮮戦争へ繋がる数々の事件の黒幕だったという文書記録の証拠を持っている。
 例えば或る文書は、金日成が赤軍大将のテレニティ・シトゥコフからいかに戦争へ煽られたかを明らか
にしている。このシトゥコフは、かつて北朝鮮でソ連軍を指揮し、1948年に駐北朝鮮ソ連大使として赴任
した人物だった。同時にこの文書では、金日成が1950年4月にモスクワでスターリンと密会したことなど
も明らかにしている。

119:アルジャー・ヒス
08/12/31 23:07:50 epc9Cyc4
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第2章 二重スパイ 裏切り者 反逆者たち 20,カボチャ文書(パンプキン・ペーパーズ)
 1938年1月 冷戦 - チェンバーズ・ヒス事件

 チェンバーズの標的はワシントンで華麗なキャリアを持つ男だった。その男、アルジャー・ヒスは、
1928年、ハーバード大学法学部卒業後、最高裁判所判事オリバー・ウェンデル・ホームズの秘書
を務めた。1930年代前半、ルーズベルト大統領のニューディール政策に参画し、当初は農務省、
次に国務省で働いた。1941年、40歳になった彼は極東問題調査部門で重責を担った。第二次世
界大戦末期には、国際連合を立ち上げる担当者でもあった。またヒスは、戦時にルーズベルト大統
領や英国のウィンストン・チャーチル首相、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンが会したヤルタ会談で、
ルーズベルト大統領の補佐役を務めた。1947年ヒスは、国務省を平穏に辞し、カーネギー国際平
和財団の総裁になった。
(中略)
 チェンバーズ・ヒス事件が再燃したのは、1996年、国家安全保障局(NSA)が、超機密作戦、暗
号名ヴェノナの結果を発表した折だった。1940年代のソ連の秘密情報を解読したヴェノナ文書は、
ヒスをスパイ活動と結びつけた。憶測は、すぐにヒスが戦時中接触した人物へ飛んだ。それは、英国
外務省の外交官ドナルド・マクリーンで、ヒスと共に国際連合の枠組みづくりなどに取り込んだ人物だ
った。マクリーンは、ソ連邦へ質の高い情報を提供した「ケンブリッジ・スパイ」一味の一人だった。

※ドナルド・マクリーンが属した”ケンブリッジ・スパイ・リング”、マグニフィセント・ファイブは余りにも
有名である。その中心人物、キム・フィルビーをモデルとした小説、映画は枚挙に暇が無い。

120:VENONA(ヴェノナ)
09/01/01 14:03:18 AKUFzpTo
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第7章 国家という秘密 48,ソ連スパイ活動の黄金時代 1943年8月 冷戦 - ヴェノナ作戦

 世界に数あるスパイ作戦の記録でも、最も長い期間に渡り、最も複雑なのが、暗号名VEONA
(ヴェノナ)という作戦だ。
(中略)
 1943年に開始された国家安全保障局(NSA)の前身、陸軍の通信安全保障局(SSA)による
秘密計画に、FBIを参加させることになった。SSAの暗号解読チームは、ソ連の電文の解読に取り
組んでいた。それは、1940年代、米国に置かれたソ連の外交施設からモスクワへ発信された無線
傍受の内容である。そのプロジェクトは、最終的にヴェノナという暗号名がつけられた。1948年、
FBIのロバート・ラムフィア特別捜査官が、この計画に参加した。彼はFBIの連絡係であり、電文情報
の管理者でもあったが、得られた知識はフーバー長官だけに伝えられ、ワシントンの政策立案者に対
しては知らされることはなかった。
 1940年代の新聞の見出しに登場した多くの名前、例えばエリザベス・ベントリー、ウィテカー・チェン
バーズ、ジュディス・コプラン、クラウス・フックス、アルジャー・ヒス、ドナルド・マクリーン、そして原子
爆弾スパイ一味の、ハリー・ゴールド、ディヴィッド・グリーングラス、ジュリアス・ローゼンバーグと
その妻エセルなどは、そうした電文の中に潜んでいる。ラムフィアやフーバーとその他少数の捜査官
たちは、電文の中にこうした人たちの名前と合致する暗号名、例えば、ハリー・ゴールドはアルノ、ジュ
リアス・ローゼンバーグはアンテナなどを、少しずつ見破っていった。しかし、そうした電文は告発の
為に利用出来なかった。ヴェノナの口の堅い管理人やFBIは、米国がソ連の主要な暗号方式を解読
したことを明かしたくなかったからだ。

121:VENONA(ヴェノナ)
09/01/01 14:50:15 AKUFzpTo
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第7章 国家という秘密 48,ソ連スパイ活動の黄金時代 1943年8月 冷戦 - ヴェノナ作戦

 ヴェノナの解読で発覚したソ連のスパイの浸透は、政府の奥深くに広がっていた。モスクワからの一通
の電文は、財務省の工作員が既に多過ぎる為、作戦要員に、これ以上工作員を配置しないよう依頼した
ものだった。ソ連の工作員は、ホワイトハウスにも、上院委員会職員にも、米国陸軍やOSS、国務省、
司法省、それに軍需生産委員会にもいた。
 ヴェノナの秘密、それを隠す覆いには穴が開いていた。ヴェノナの存在は、電文を処理していたロシア
語言語学者、ウィリアム・ワイズバンドによってソ連に知らされた。ヴェノナを極力隠しておきたい為、
彼は遂にスパイで告発されることはなかった。

 長年の間ヴェノナは、米国の防諜活動の最も重要な拠点だった。ヴェノナは、ソ連情報機関による密か
な米国人勧誘が成功してきた事実を明らかにした。スパイとなった米国人は、秘密の情報源として、
ホワイトハウス、国防省などの政府機関に潜入、それのみならず、マスコミやハリウッドなど様々な領域に
侵入した。この時期を米国に於けるソ連スパイ活動の黄金時代、と呼ぶ人もいる。ソ連の手先となった
人物は、350人近くに及ぶとされたが、その半数は、未だに姓名が判明していない。

※田母神論文の”フランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいた”という
記述は公開されたヴェノナ・ファイルに基づいていることが分かる。

122:田母神前空幕長出演
09/01/02 14:17:21 cNPHFgGb
新春特別企画 「日本の現在と未来を語る」-Part1 ★1月2日公開★
URLリンク(www.so-tv.jp)

戦後レジームの大いなる矛盾を見事に白日の下にさらし、真に日本を思う人々を勇気づけられた
前航空幕僚長の田母神俊雄氏をお迎えし、この国の現状と未来についてじっくりと語り合った新春
特別企画をお送りします!

出演:
 田母神俊雄(前航空幕僚長)
 中條高徳(日本戦略研究フォーラム会長)
 渡部昇一(上智大学名誉教授)
聞き手:
 水島総(日本文化チャンネル桜 代表)
 丹羽文生(東北福祉大学講師・拓殖大学海外事情研究所客員研究員)

123:コミンテルンの対外情報工作
09/01/02 15:20:05 cNPHFgGb
KGBの内幕―レーニンからゴルバチョフまでの対外工作の歴史〈上〉〈下〉
クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)
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第三章 ジェルジエンスキー時代の”積極工作”  コミンテルンの対外情報工作

 ソヴィエト・ロシアは組織的な対外情報収集活動を開始する前においてすら、国境を越えた秘密
工作という野心的な計画に乗りだしていた。内戦中のチェーカーは国内に於ける真偽取り混ぜた
陰謀からボリシェヴィキ政権を防衛していたが、ソヴィエトの国外工作員の任務は、先ず何よりも
革命の拡大に向けられた。だが、秘密工作の殆どを組織したのはチェーカーではなく、コミンテルン、
即ちソヴィエト支配の共産主義インターナショナルだった。コミンテルン執行委員会(ECCI)は自ら
を”世界革命の参謀本部”と考えたのだ。
(中略)
 ジノヴィエフはコミンテルン大会で、コミンテルン執行委員会(ECCI)は、共産主義インターナショナ
ルに加盟し、または加盟を希望している諸政党の活動に”干渉する”権利ばかりでなく、干渉する義
務を有すると述べた。そのような”干渉”の主要な武器は、コミンテルン執行委員会(ECCI)から
加盟政党や共産主義グループに派遣される”モスクワの目”とあだ名される代表だった。

※毛沢東も中国共産党内の活動を”モスクワの目”によって監視され、やがてコミンテルンの援助
によって指導的地位に就くこととなる。毛沢東がスターリンに頭が上がらなかった所以である。

124:ゾルゲの対日工作
09/01/02 16:54:05 cNPHFgGb
KGBの内幕―レーニンからゴルバチョフまでの対外工作の歴史〈上〉〈下〉
クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー 著
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第六章 シギント、工作員の浸透戦術  [ゾルゲの対日工作]

 ベルジン配下の最も成功した浸透工作員は、リヒアルト・ゾルゲだった。1964年、つまりその死
から20年後にはゾルゲはソヴィエトの英雄となり、一連の公認の聖伝刊行と-外国人の工作員に
はきわめて珍しいことだが-特別の郵便切手の発行によって名誉を称えられた。
(中略)
 第一次大戦後、ゾルゲはハンブルク大学で政治学の博士号を取り、共産党の闘士として働いた。
1924年遅く彼はモスクワへ移り、1925年初頭にコミンテルンのOMSで働き始め、ソヴィエトの市民
権を取った。1927年から1929年にかけて、OMSは彼をドイツでの一連の情報活動に派遣した。
彼が後に語ったところによれば、イギリスとスカンジナヴィアへも行ったという。1929年11月、彼は
ベルジン将軍に目を掛けられて個人的に第四部に徴募された。もっとも、ピヤトニツキーやOMSとも
引き続き関係を保った。
 ゾルゲの最初の任務は、ドイツのジャーナリストを装って上海でスパイ・ネットワークを運営すること
だった。そこで彼は、後に彼の最も重要な工作員となる一人の日本人のジャーナリストを徴募した。
それは、日本政府と類ない繋がりを持つ裕福な出身の尾崎秀実という若い理想家肌のマルクス主義者
だった。

125:ゾルゲの対日工作
09/01/02 17:31:13 cNPHFgGb
KGBの内幕―レーニンからゴルバチョフまでの対外工作の歴史〈上〉〈下〉
クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー 著
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第六章 シギント、工作員の浸透戦術  [ゾルゲの対日工作]

 1933年9月に東京に着いた時、ゾルゲが受けた命令は、「日本がソヴィエト連邦攻撃を計画して
いるかどうかに関する問題を十分慎重に研究せよ」というものだった。彼は8年後に逮捕された後で
こう書いている。
 ”これは、多年にわたって私と私のグループに命ぜられた最も重大な任務だった。それが日本に
おける私の使命の唯一の目的だと言っても大きな間違いではないだろう・・・”
(中略)
 リヒアルト・ゾルゲに関するソヴィエトの公認の賛辞の全てには、少なくともこれまで西側には知ら
れていない一つの故意の歪曲が含まれている。それは、ゾルゲの情報報告はたいていは、ソヴィエト
のシギント活動、つまりグラスノスチ時代にあっても依然として公式には言及する事が出来ない形態
の情報活動の成功を隠す為に用いられているということである。シギントは、ゾルゲ自身よりも遙かに
重要な日本に関する情報源だったと言って良い。

126:日出づる処の名無し
09/01/02 18:22:01 BPuGdG0x
延々とコピペしてるのは何が目的なの??
議論したいなら自分のコメントを加えるべきだし
単に資料集にしたいだけならマイドキュメントでやってほしいんだけど。

127:ミュンツェンベルク・トラスト
09/01/02 22:38:43 cNPHFgGb
KGBの内幕―レーニンからゴルバチョフまでの対外工作の歴史〈上〉〈下〉
クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー 著
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第三章 ジェルジンスキー時代の”積極工作” [ミュンツェンベルク・トラスト]

 トリッセルが1921年にINO(秘密警察チェーカーの外国部門の後継組織)を引き継いだ頃、コミン
テルンはその海外工作員の秘密ネットワークを運営する為、秘密の国際連絡部(OMS)を組織した。
OMSは外国の共産党員とその同調者(共産党シンパ、ピンコ)を秘密情報活動に引き込むことで、
INOにとって貴重な働きをした。こういう人々は、ソヴィエトの秘密情報機関が直に接近するよりも、
コミンテルンが支援を訴える方が効き目があり、1930年代のOGPUとNKVDの最も優秀な対外工作
員の多くは、最初は自分たちがコミンテルンの為に働いていると信じていた。
 OMSは、後にソヴィエトの重要な”積極工作”(影響力行使型工作)の手段となる”フロント組織”の
先駆けとなった。OMSの資金で設置されたフロント組織の中で最大の手腕を発揮したのは、ドイツ
共産党の代議員ヴィリー・ミュンツェンベルクで、その”生涯のパートナー”のバベッテ・グロスが愛情
込めて”同調者たちの守護聖人”と評する人物だった。1921年のロシアの飢饉の時代に、ミュンツェ
ンベルクはベルリンに本部を置いて”国際労働者救済会(IWA)”を設置し、瞬く間にコミンテルンの
最も効果的な宣伝担当としての地位を確立した。

128:ミュンツェンベルク・トラスト
09/01/02 23:37:47 cNPHFgGb
KGBの内幕―レーニンからゴルバチョフまでの対外工作の歴史〈上〉〈下〉
クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー 著
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第三章 ジェルジンスキー時代の”積極工作” [ミュンツェンベルク・トラスト]

 IWAは党内では”ミュンツェンベルク・トラスト”と呼ばれるようになった。
(中略)
 IWAは、ミュンツェンベルクが密かに”イノセンツ・クラブ”(ここではイノセンツは”愚か者”の意)
と呼んでいた一連の組織のはしりであり、それは、コミンテルンの密かな指導の下に時流に乗っ
た様々な目的を支援することによって”インテリを組織する”ために作られていた。彼は、プロレタ
リアートとの精神的連帯という響きの良い言葉で惹き付けた”イノセントな”ブルジョア・インテリ層
に対して友情ある軽侮の念を抱いていた。ミュンツェンベルクの主たる関心は宣伝活動にあった
が、彼は”イノセンツ・クラブ”をOMS(コミンテルン国際連絡部)の情報活動ネットワークの隠れ蓑
として利用した。そのネットワークの中には、彼自身が誘い込んだインテリの内の何人かが含ま
れている。

※無防備地域宣言運動全国ネットワーク(無防備マンで知られる)が極左過激派であるMDS
(民主主義的社会主義運動)のフロント組織=イノセンツ・クラブであることも了解できよう。
現在の日本でもミュンツェンベルク・トラストと類似の活動は続いているのである。

129:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/04 00:56:18 A+O30QX3
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

■敗戦謀略の真相 [なぜ第二次世界大戦が起きたか]
(前略)
 ある日、元内務相警保局出身の代議士、三田村武夫氏を伴って来た。重要な話だから、充分
時間をとって欲しいということで、馬場恒吾読売新聞社長と二人で何事ならんと聞き耳を立てた。
 三田村氏は、一応言わんとするところをタイプに打ってきたと言って、分厚い書類を出し、説明
に入った。題名はたしか「コミンテルンの敗戦謀略」だったと記憶する。それをめくりながら、鋭い
論鋒で迫る彼の弁舌に、私達二人は異常な驚きを覚え、黙って聞き入った。
 イデオロギー闘争と並んで、当時の私が自らに課していた一番大きな問題は、我々の先輩が
負けると決まった、あんな馬鹿げた大戦争をなぜやったのか。その真因を追究し、後世の資とす
ることだった。その為に、これからあらゆる努力を払おうとしていた矢先だった。三田村代議士の
分析は、まさにその核心に迫った、驚くべき事実の発掘だった。私は身震いするほど興奮し、そ
の話に聞き入った。

大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義 三田村武夫 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

130:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/04 01:43:23 A+O30QX3
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

■敗戦謀略の真相 [尾崎・ゾルゲ事件]

 三田村武夫代議士と松前重義氏(東海大学総長、世界柔道連盟会長)の持ち込んだテーマは、
実に驚嘆に値するものだった。「馬場さん、ソ連のスパイだった尾崎・ゾルゲ事件をご存じでしょう。
私どもは警保局でこの事件を担当して以来、一貫してその内容の分析、調査をしてきましたが、
ようやくことの真相を突き止めることができました。実を言うと、彼らは単なるスパイではなかったん
です。コミンテルンの世界革命計画に従って、負けると決まっている戦争に日本を駆り立て、敗戦に
導くことによって、一挙に暴力革命を達成しようという、大変な戦略、つまりこれを名付けて『敗戦謀略』
といいますが、その大罠に日本を嵌め込んだ、とんでもない、壮大な政治謀略家だったんです。
愚かにも日本は、ウマウマとその手に乗っかって、今日の惨状を招くに至ったという事に目を開かせな
きゃいかんと思って、お伺いしたわけです。」

大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義 三田村武夫 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

※三田村氏の証言は近衛文麿公にも衝撃を与え、近衛上奏文の元ともなった。
※正力松太郎を描いた佐野眞一著『巨怪伝』にもこのエピソードが出てくる。
※ルーズベルト大統領と近衛文麿公、即ち日米中枢にまでコミンテルンは及んでいたのである。

131:日出づる処の名無し
09/01/04 02:01:04 Z5/vn79F
労働組合ってなにするところ?
2008年3月より労働組合で専従で働くことになりました。あまり知られていない労働組合の真の姿(!?)を伝えていきたいと思います。

ニックネーム:みどり
性別:女性
血液型:A型
出身地:北海道生まれの埼玉育ち
自己紹介:
「労働組合は暗い、堅い」という印象を払拭すべくがんばります。若者にも親しまれる労組を目指して!

URLリンク(ameblo.jp)

みんな読んでね~♪

132:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/04 02:46:12 A+O30QX3
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

■敗戦謀略の真相 [尾崎・ゾルゲ事件]

(27年テーゼ、32年テーゼの解説省略)
 究極の世界革命達成のためには、先ず資本主義国同士を戦わせ、その負けた国から一つずつ
革命していき、大勢の決まったところで一挙に世界暴力革命に突入する-という筋書きだったという。
それを彼らは敗戦謀略と名付け、日本をその絶好の生け贄と見てとったのだった。

 幸か不幸か、時の宰相近衛文麿公爵は、学生時代から公卿には珍しい進歩主義者で、学習院から
東京帝大へ進まず、自ら希望して京都大学へ入った。『貧乏物語』で青年を惹き付けていたマルキスト
河上肇教授を慕ってのことだったという。当然、彼の頭の中に巣食ったものは、マルキシズムに他なら
なかった。こうして成長した彼の側近には、本モノ、偽モノを含めて、そのほとんどがいうところの進歩主
義者で埋め尽くされ、モスクワの使者、尾崎秀実が潜入するには、何の障壁も無かった。

133:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/04 03:35:36 A+O30QX3
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

■敗戦謀略の真相 [尾崎・ゾルゲ事件]

 ゾルゲの指示に従って近衛内閣の嘱託となり、近衛を取り巻くブレーン・グループが構成していた、
いわゆる「朝飯会」の有力メンバーとなった。その主な顔ぶれを見ただけでもゾッとする。

 風見章、富田健治、西園寺公一、笠信太郎、原貞蔵、松本重治、田中慎太郎、犬養健、牛島友彦・・。

 身近な秘書から大臣、書記官長(今の官房長官)に加うるに、親戚、縁者、ジャーナリストから学者を
加え、揃いも揃ったり、といいたいところだが、これだけ集まれば、国の最高機密だって、何でも取れる。
また、国政を左右しようとすれば何でも出来る。スパイにとって、これ以上の宝庫は無かった。また謀略
政治家にとって、これ以上の醸造工場は無かった。当然あらゆる機密はモスクワ直通となり、近衛の
頭の中は、スターリンのタクト通りに、右曲がり、左曲がりしながら、次第に思う壺に嵌っていくことになっ
てしまった。
 その最初の重要な落とし穴が、重慶との和平工作の挫折であった。両者が漢口を中心に話し合い成立
に近づいた時、双方に異なる情報を売り込んで、ブッ壊し工作に成功したのが、さきに述べた朝飯会の
メンバーの一人だった。

134:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/04 15:10:56 A+O30QX3
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■敗戦謀略の真相 [北進から一転仏印へ]

 日本は中国大陸の泥沼に半永久的にはまり込んでいくこととなったが、、同時にこの時、既に日本側
からばかりでなく、モスクワ側からも巧妙な破壊工作の手が延安を通じて伸びていた。それが何と、日
本軍の手で暗殺された張作霖(註:この事件については近年、ソ連GRU、エイティンゴンの関与が示唆
されている)の息子、張学良による蒋介石監禁事件であった。当時は満州族による勢力挽回のための
一策ぐらいにしか受け取られていなかったが、後になって分かったところによると、あに図らんや、この
時、張学良を裏から操っていたのが、後の北京政権の名宰相周恩来だった。したがって、中国側でも
この時を境に、全く相容れないはずの国共合作が出来上がり、抗日戦線の統一となって、大陸の泥沼
は一層底なしの深さとなった。これが延安に落ち延びていた中共軍を引き出し、拡大、強化させ、やがて
大陸制覇、政権確立への道を拓き、逆に蒋介石、張学良ともども台湾へ逃げ込まざるを得なくさせた、
近代中国史の一大転換点となろうなど、当時の誰が想像し得たであろうか。
 ともあれ、近衛文麿公は何の見通しもないまま、心なくも例の「蒋介石、対手にせず」の声明を発表し、
汪兆銘を担いで南京政府樹立の祝砲を打ち上げ、大東亜新秩序建設の新時代を拓こうとした。これも
また、尾崎の描き出したポンチ絵とはつゆ知らずに・・・。それら全てが全くの空砲に終わってしまう運命に
あったとは・・・。

135:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/05 23:18:45 PrJIDPAu
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■敗戦謀略の真相 [北進から一転仏印へ]

 自由主義者であり、平和主義者であったはずの近衛文麿公の足下で、この頃から本格的な臨戦
体制が次々と打ち出され始めた。
 先ず、「近衛新体制」と称して「翼賛政治会」の名の下に、政党は解体統一された。相前後して「大
政翼賛会」の名の下に、下は下町の片隅にまで隣組組織がくまなく網を張り巡らされ、瞬く間に日本
は全体主義的統一国家へと変貌していった。近衛自らの達筆になる「上意下達、下意上達」の迷文
句が、氏神様のお札のように、全国至る処にベタベタと張られだしたのもこの頃だった。それにも関わ
らず、議政壇上で、「何故にかかる全体主義的な非民主的統一国家、独裁体制を作るのか」と政党
代表に詰問され、追い詰められた時、一国の、しかも非常時を背負う総理大臣が、「実は私にも、ど
うしてこうなったのか、全く何も分からぬままに来てしまったのです・・・」といって絶句し、白いハンカチ
で眼を拭って、泣き出してしまったのを、駆け出しの記者の私も目撃している。世の中にこんな不思議
なことがあってたまるものかと、憤激を覚えたことが、昨日のことのように想い出される。彼がいかに
目隠しされた操り人形であったかを如実に物語るシーンだった。

136:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/06 21:32:31 YrNfixto
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■敗戦謀略の真相 [北進から一転仏印へ]

 三田村武夫(衆院議員)、松前重義(東海大学総長、世界柔道連盟会長)両氏の説明によると、
尾崎秀実(コミンテルン、ゾルゲ・グループ、朝日新聞記者、日本共産党員)の筋書きに近衛文麿
公の親友、後藤隆之助たちが乗って、「昭和研究会」とか「国策研究会」をつくり、そこでこれら新
体制なるものの綿密な全体計画が練り上げられていったという。しかも表面上は、日増しに強くな
ってきた軍閥の力を抑制するには、これ以外にないというのが、ここに集まった進歩主義者たちの
言い分だった。しかしそれら全てが裏を返せば、近衛なき後、軍閥が政権をとれば、そのまま
ヒットラーやスターリンと全く同じ、軍事独裁政権確立のための巧みなお膳立てとして、着々と
進んでいたこととなる。

137:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/07 05:24:32 EvHMEFvI
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■敗戦謀略の真相 [北進から一転仏印へ]

 ゾルゲ、尾崎秀実が彼らにとって最後の、そして最大の花を咲かせる時が来た。昭和16年である。
ゾルゲはドイツ大使オットーの信任を得ていたので、ヒットラーが独ソ不可侵条約を裏切ってソ連に
侵攻することをいち早く察知し、その正確な期日までモスクワに打電した。しかし、それでもソ連は押し
まくられ、遂にスターリングラードの死の攻防戦となった。それまで日本を猿扱いしかしていなかった
ヒットラーが、この時ばかりは枢軸国日本に対し、背後から今一押ししてくれれば勝てるからと、日本
軍のシベリア出兵を矢のように催促してきた。軍はそれに応えて7月、関東軍特別大演習、つまり
「関特演」の名目で、総力を満州と朝鮮半島に集結させた。この大戦力がもしあの時、そのまま北へ
歩を進めていたら、ソ連は一たまりも無かったはずである。戦後の世界も、また今日とは全く違った
様相となっていたに違いない。ソ連はまさに累卵の危機に直面し、震え上がった。ゾルゲ、尾崎にとっ
てもその使命上、最大の危機となった。この時二人が日本軍の北進を食い止めるためにどのように
動き回ったか、詳しいことは分からない。しかし、この時尾崎が説いて回った「北方傾斜論」という
論文が残っているという。

※「北方傾斜論」は三田村武夫著『大東亜戦争とスターリンの謀略』解説編第三篇の”二、日華事変
より太平洋戦争へ”の「独ソ開戦とシベリヤ傾斜論」で示されている。”北方傾斜論”よりは”シベリヤ
傾斜論”が正しい表現であろうと思われる。

138:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/09 00:15:30 fOEUzSi5
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■敗戦謀略の真相 [北進から一転仏印へ]

 それ(尾崎秀実の『シベリヤ傾斜論』)は「今北進すれば、シベリアは苦もなく手中のものとなろう。
だがツンドラのシベリアを手に入れても何になるか。そこからは日本が必要とする石油の一滴すら
取れないではないか。それよりも、北方にいささかの懸念もなくなった今こそ、進んで軍を南へ向け、
豊かな石油資源を手に入れる絶好のチャンスであり、その方がどれほど賢明か。選ぶとすれば、
北進か南進か、いずれをとるか?しかも今日本を真に敵視しているのはソ連ではない。米英である。
米英は、日本がこの北進作戦で、なけなしの石油と鉄を使い果たすのを見届けた上で、必ず日本を
討って出るに違いない」というもの。
 これが決定的な礎石となった。最高政策の決定は、彼の主張通り北から南へ180度転換した。
即ち仏印進駐となって現れたのだった。それを知った尾崎は、自ら満州視察に出掛け、その目で確認
して帰り、もはや日本軍に北進の意図なし、とゾルゲに報告した。同時に南進すれば、いよいよ米英仏
蘭を向こうに回し、筋書き通り、小さな卵が世界大戦の巨壁に自ら体当たりして、自滅し敗戦する。
クレムリンの期待はこれで100%達成されたも同然となった。これをソ連に打電して、初めて二人は
「わが事成れり!!」と乾杯したという。日本の運命はこれを境に釣瓶落しになっていくなど、何人が
気付いていたか。最大の分岐点がこの瞬間にあったといえる。

139:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/10 00:34:04 7zl8pORU
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■敗戦謀略の真相 [北進から一転仏印へ]

 ちょうどその頃 (尾崎・ゾルゲらによって日本軍が北進から南進へ転換した1941年)、
先般20数年ぶりに北京から帰国した (1980年9月3日、逃亡した中国から27年ぶりに帰国)
伊藤律 (日本共産党No.2、1951年中国へ密航、徳田球一、野坂参三と共に北京機関で活動)
の自白で、(尾崎・ゾルゲらへの)捜査の手が伸び始め、昭和16年10月15日に尾崎、次いで
18日にゾルゲも逮捕されることとなった。
 その上、ABCDライン(包囲網)による(対日)経済封鎖が、近衛文麿公の和平への道を完全に
塞ぎ、内閣のバトンは近衛文麿から東条英機へと引き継がれた。筋書き通りに、日本は軍事政権、
世界大戦へと突入していったのだった。

※伊藤律(いとうりつ)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(gonta13.at.infoseek.co.jp)
伊藤律 帰国事件 - 1980
URLリンク(jp.youtube.com)

140:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/10 19:37:18 y42E7hLl
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■近衛総理の上奏文
 尾崎秀実、ゾルゲ(朝日新聞、日本共産党による敗戦謀略)のあらましは、以上の通りだが、
三田村(武夫)論文によると、この敗戦によって32年テーゼにあった、いわゆる二段革命論の
第一段階であるブルジョア民主革命は完遂されたこととなった。即ち天皇、官僚、財閥の力が
崩れ去った。そして既に第二段階の直接革命に突入する段階に来たという。その第一目標が
三大新聞の一つを手に入れて、それを公的な党の宣伝機関として活用すること。それと並行し
て交通、通信、エネルギーの三大機関を止めれば、国家は一瞬にして真っ暗闇の麻痺状態と
なる。そこで一挙に暴力革命に突入する準備は万端整っていたとうのである。
 「読売は、まさにその第一目標にされていたわけですよ」

※読売争議 読売新聞 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
URLリンク(ja.wikipedia.org)
★第1次争議 業員側は闘争宣言を発し、鈴木東民(日本共産党)を委員長とする闘争委員会を結成した。
10月10日には府中刑務所を出獄した日本共産党の徳田球一、志賀義雄、金天海が熱狂の中で迎えられ、
蔵前工業会間では日本全国から戦前の労働組合関係者170名あまりが集まり第一回労働組合再建懇談
会が開かれている。
★第2次争議 1946年に入るとチャーチルの「鉄のカーテン」発言から冷戦が事実上開始され、GHQの方針
に微妙な変化が起こり、これが「民主読売」の前途に暗雲をもたらした。
1946年6月、馬場はGHQの支援を取り付けた上で、鈴木たち共産党員6名に退社命令をだした。これがきっ
かけで争議が再発した。民間情報教育局(CIE)は第1次争議では従業員側を影ながら応援していたが、こ
の第2次争議では馬場ら経営側を応援した。従業員側はストライキで抵抗し、経営側の人間だった務台光
雄はこれに対抗すべく警察担当となって、従業員排除のために警察やMPの出動を要請した。GHQの後ろ
盾が急に無くなった従業員側は初めから不利であり、警察やMPともみ合いになって血まみれになりながら
輪転機を守ったが、10月には鈴木ら労組の幹部だった37名が退社処分となって「民主読売」は崩壊した。

141:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/10 20:09:59 y42E7hLl
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■近衛総理の上奏文

 私(=柴田秀利)はかねがね、極東裁判で東条英機がA級戦犯第一号に指定されたことに疑問
を抱いていた。なるほど、真珠湾攻撃の現行犯としてはやむを得ない。それは連合国の結論であ
る。しかし日本人として、戦争を起こした真因を追究するとすれば、近衛文麿が先に述べた仏印進
駐によって、日米会談その他すべての和平工作を塞がれ、あまつさえACDCラインによる経済封鎖
を受けて、総辞職した途端、政権の座に就いたのが東条英機だった。つまり、拳骨を振るう以外に
道無き時に、軍を代表して総理となったものである。東条英機としては当然、振り上げるべくして振
り上げた拳骨だった。だから確かに現行犯には違いない。しかし、あれだけの大戦争である。到底
一日や二日の準備で出来る筈のものでは無い。政治的、道義的には、少なくともそれ以前4、5年
の政権を担当してきた者が、戦いの止むなき原因を積み重ねてきた、その累積の結果だと見なくて
はなるまい。とすれば、それは近衛文麿をおいて他に無い。酷に過ぎると言えばそれまでだが、一番
大切な政治的・道義的責任の観点からすれば、

             全ては近衛文麿公に有りと断定せざるを得ない。

その近衛文麿公は重ねて言うが、自由主義者、平和主義者で、世界大戦を志向する意志など、絶対
に持ち合わせていなかったと信ずる。それが何故こういう屈辱の帰結を結んだか、それが最大の疑問
であり、その失政のもとはどこにあったか。それは依然、後世史家の徹底的な究明の課題かと言える。
しかしその前に、尾崎、ゾルゲが昭和19年11月7日、ロシア革命の記念日に死刑を執行された3ヶ月
後、遅過ぎはしたが、近衛文麿公は自らの責任を痛感して次のような上奏文を奉呈している。

近衛上奏文
URLリンク(www2u.biglobe.ne.jp)

142:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/10 20:59:36 y42E7hLl
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■近衛総理の上奏文
URLリンク(www.max.hi-ho.ne.jp)

 「敗戦は遺憾ながらもはや必至なりと存じ候・・・」と前置きした上で、
「国体護持の建前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴って起こることあるべき共産革命
に候」と視点をここに据えている。
 「かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来・・・」とコミンテルンの世界革命戦
略を説き、既に国内に共産革命達成のあらゆる条件が具備されてきたことを力説して、軍人、
革新官僚ばかりか、「皇族方の中にも、この主張に耳を傾けらるる方ありと仄聞いたし居り候」
と、まさに思い切った指摘までしている。
 「このことは過去50年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたり交友を有せし不肖が、
最近静かに反省し到達したる結論にして、この結論の鏡にかけて、過去10年間の動きを照らし
見る時、そこに思い当たる節々すこぶる多きを感ずる次第に御座候」
 と、自分が如何に迂闊、不明であったかを詫びている。
 そして、この必死の覚悟で書いたと見られる上奏文の最後で、
「この一味を一掃し、軍部の建直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提、先決条件
なれば、非常の御勇断こそ望ましく候」
と訴えている。

※近衛文麿は上奏文にてコミンテルンの策謀を指摘していたため、ソ連のスパイであった
GHQ情報部調査課長、ハーバート・ノーマン(『外交官E.H.ノーマン』)により作成された「戦争責任
に関する覚書 近衛文麿」によって自殺に追い込まれているという。
(参考)われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇 (単行本)
URLリンク(www.amazon.co.jp)

143:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/11 05:16:05 9thQmmqH
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

■近衛総理の上奏文 1945年(昭和20年)2月14日
URLリンク(josaito.sakura.ne.jp)
URLリンク(ja.wikipedia.org)

 それ(近衛上奏文)は余りにも遅過ぎた。指摘通り、投げられたサイの目は、誰の目にも既に
敗戦、破局をハッキリと明示していた。泣いても、訴えても、今更どうしようもない時点だった。
それにしても、コミンテルンの二段革命論にはまり込み、この国が当に革命の巌頭に立たされて
いることに気付いただけでも、この告白的上奏文の持つ史的意義は大きかった。だまされ、利用
され続けてきた、かつての青年マルキストなればこその覚醒だったといえる。遺憾ながら、このよ
うな重大な元総理の上奏文が出たなどということは、当時では誰一人知る者とて無かった。(ただ、
軍部だけはこれを察知し、この上奏文に関係した者として、後の首相吉田茂氏を憲兵隊に留置し、
告白させようとしたが、吉田氏は頑として口を開かなかった。筆者は岩淵辰雄さんだった。)

 それは戦後、近衛が巣鴨入りを潔しとせず、服毒自殺したあと、丁度この三田村論文を知った
後だったと思うが、初めて公表され、識者に衝撃を与えた。

近衛文麿の上奏文(抜粋)
URLリンク(www.cc.matsuyama-u.ac.jp)

144:日出づる処の名無し
09/01/11 05:44:47 xJei1PMO
朝から晩まであちらこちらに似たようなスレ立てて
コピペコピペww 誰も反応せずID出ない板では自演w
生きてて恥ずかしくないのw

145:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/11 05:59:56 9thQmmqH
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

■スターリンの罠

 これ(近衛文麿公の自殺(1945年12月)後、近衛上奏文の公表後)と相前後して、尾崎秀実
の獄中から家族に宛てた書翰集が、『愛情はふる星のごとく』と題して出版され、大変なペスト・
セラーとなった。読売はいち早く昭和20年末に本事件の概要を出したが、一周忌を前にして朝日
が、これこそが真相として書いた記事は、一転して自社(朝日新聞)出身の尾崎を愛国者に仕立
て上げ、その流れが今日まで続いている。ともあれ、このベスト・セラーとなった書翰集の跋の中
で、尾崎秀実の親友、印刷出版労組の初代書記長松本慎一が、「尾崎は祖国を売りはしなかった。
祖国を救うため、祖国の繁栄のために命を賭けて行動した・・・」と讃えながら、そのあとの文言は
ハッキリ覚えていないが、

 「そのために尾崎は戦争に反対するどころか、逆に日本を戦争へ戦争へと積極的に駆り立てた」

という意味のことを書き留めているのを見た。ただし、版を重ねる内に、いつの間にかこの論文は
切り捨てられたように記憶している。

 当時から日本共産党は、戦争反対を終始一貫主張し続けてきたのは我が政党だけである、と
一枚看板のように宣伝していた。しかし、松本慎一のこの一文は、はからずもそれが真実では
なかったことを告白した証拠と見られなくもなかった。私はここに、三田村武夫論文の「敗戦謀略論」
が単なる作り話ではないことを確認した。

146:日出づる処の名無し
09/01/11 06:19:16 YtfzRRvm
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【田母神は】田母神暴言事件【自衛隊の恥】
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田母神空幕長は神!
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こっちもカオス・・・

田母神問題Q&A<軍事板常見問題&良レス回収機構
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┗そのリンク集
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コミンテルンの陰謀
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大和魂を持つタモさんに既女板の人妻達はもうト・リ・コ
【定年退職】田母神前空幕長スレ
スレリンク(ms板:653番)n-660


147:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/11 06:29:21 9thQmmqH
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■スターリンの罠

 そして考えた。もしこの大東亜戦争が三田村武夫論文通り、スターリンのタクトに振られて、踊ら
されたものだとすれば、必ずやスターリンは、同じような罠を、敵国のアメリカ側にも張り巡らしてい
たに違いない。今まで日本に指令されてきた占領政策の数々も、裏を返せば、ことごとく日本を弱体
化させ、必然的に社会主義化させようとするものばかりだったといっても過言ではない。受ける側の
日本からすると一層それがハッキリと見えていた。日米共に莫大な血の犠牲を払わされ、戦い終わ
って蓋を開けてみたら、何のことはない、双方共々スターリンの手のひらに乗って、踊らされた阿呆
同士だったじゃないか、ということになりかねない。私は、双方がそれに気付いて、眼を開くことを熱望
した。
 翌朝、早速馬場恒吾読売新聞社社長にこの筋書きを話し、これは是非GHQ情報部長ウィロビー少将
に読ませましょうや、と進言した。争議の時に散々世話になった関係もあり、社長も良かろう、というの
で二人で出掛けて行った。
(中略)
私は、「この調査の結果、必ずやクレムリンが、同じような手口で、ワシントンの中枢にも伸びていた
ものと推察します。殊にヤルタ会談の演出者と極東委員会の内部に是非メスを入れて下さい」と付け
加えた。ウィロビー少将は一瞬、愕然とした面持ちを見せた。
「喜んで拝読し、十分検討してみます。その上で改めてこちらから意見を申し上げますから、それまで
しばらくお時間を下さい」と言って雑談に入り、帰社した。

※この事は後に、VENONA暗号解読などにより裏付けられていくことになる。

148:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/11 15:23:15 9thQmmqH
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■敗戦謀略の本格調査

 半月ほどしてGHQ参謀第2部(G2)部長チャールズ・ウィロビー少将から連絡があり、馬場恒吾
読売新聞社社長と二人で出掛けた。今度は彼一人ではなく、数人のスタッフを揃えて待ち構えて
いた。
 「先日頂いた『敗戦謀略』の論文、つぶさに検討しました。全く驚き入った事実を教えられて、目
の皮が剥がれた思いがしました。そこでGHQ最高司令官マッカーサー元帥以下、全員の意志で
本件の本格的調査、研究をする特別委員会を郵船ビルに設置することを決めました。ワシントン
とも連絡し、委員長に専門家の将官が着任することまで決定したことをお知らせします。われわれ
にとって、実に得難い課題を提供して頂いたことを心から感謝します。」
 真に決意に溢れた、丁重な挨拶であり、回答であった。
(中略)
 ウィロビー少将のやることは全く素早かった。昔の担当検事、特高、それに旧軍の情報担当幹部
が続々と呼び出され、委員会はたちまち膨大な組織に膨れ上がっていった。しばらくして、ワシントン
から着任したという専門家の少将に帝国ホテルでご馳走になり、これは必ずワシントンばかりか、
世界を驚かす調査になりますよ、といった、張り切った意気込みを聞かされ、私は非常な満足を覚
えた。
 ここに三田村武夫氏(『大東亜戦争とスターリンの謀略』)が参画したことは言うまでもない。

149:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/11 16:08:20 9thQmmqH
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■敗戦謀略の真相 [集中排除法案]

※要約:経済力集中排除法案(極東委員会指令二三〇号=FEC230)
 日本企業約300社を分割・解体し、日本を貧農国化→赤化し社会主義国化を企図した法案
 1946年の日本は1930-1934年の工業平均指数平均の45%、輸出10%、輸入30%
 FEC指令230号は、この危篤状態の日本から、更にその肺と心臓をえぐり取ろうとするものに
 他ならなかった。これを推進したのがアメリカの共産主義者たちだった。

※上記の対日敗戦謀略をGHQに伝え、阻止し、占領政策を「破壊から建設」へと転換させ、
戦後日本の復興の起点づくりに貢献したのが著者らであった。

 こうしてごり押しの集中排除法案を、時計を止めてまで国会を強行突破させ、成立させてGHQ
はじめワシントン本部のラディカリスト(=共産主義シンパ、ソ連のスパイ、ピンコ)たちが乾杯し
ている頃、そのまた大奥の大統領周辺に彼らが思いもしなかった調査の手が深く潜行し始めて
いようなどとは、誰知る由も無かった。戦後最大のソ連スパイの一人と見なされる
ウィテカー・チェンバーズ(Whittaker Chambers, From Wikipedia, the free encyclopedia)
URLリンク(en.wikipedia.org)
が検挙され、その巨大なネットワークが次々と明るみに出されてきたのだ。その概要を知らされて、
私は、遂に私の直感した本物が、ワシントンの中枢部から掘り出されてくるのもほど遠くない事を
期待した。

150:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/11 17:28:41 9thQmmqH
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
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■敗戦謀略の真相 [赤いネットワーク]

 雑誌タイムの老練記者だったウィテカー・チェンバーズが、自らソ連の手足だった事を告白する
と同時に、自分は縁を切ったが、クレムリンの指令に基づいて、赤い巧妙なネットワークが政府最
高幹部の頭脳の中に潜入し、明日の世界地図を真っ赤に塗り替えようとしているという、重大な証
言を下院の非米活動調査委員会(the House Un-American Activities Committee; HUAC)で行い、
一大センセーションを巻き起こしていた。なかんずく、彼が政府の最上層部に食い込んでいる指導
的メンバー7人の名を挙げた中に、

アルジャー・ヒス(Alger Hiss) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 と
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)
ハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(en.wikipedia.org)

の名前が有った。ヒスは戦後世界の分割統治を決めた最も歴史的な米英ソ三巨頭によるヤルタ会談
に、年老いて死期を目前にしたルーズベルト大統領を連れ出し、その特別顧問として暗躍した。
そしてスターリンの要求通り、満州と樺太、千島の権益をソ連に与えるという、戦後のアジアや日本に
とって最大の課題となった案件を、巧みに呑み込ませてしまった張本人である。彼の正体を暴いた
『反逆の種』SEEDS OF TREASON. The Strange Case of Alger Hiss (Hardcover) by Ralph and Lasky, Victor De Toledano
URLリンク(www.amazon.co.uk)
はたちまちベストセラーとなり、全世界を動転させた。

151:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/11 18:12:21 9thQmmqH
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

■敗戦謀略の真相 [赤いネットワーク]

 アルジャー・ヒス(Alger Hiss)こそはまさに、私がかつて推測したとおり、アメリカにおける尾崎秀実
だった。そして今一人のハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)-彼は何とヒスの片腕とし
て、ルーズベルト大統領時代の財務長官ヘンリー・モーゲンソウ(Henry Morgenthau)の次官を務め、
次いで極東委員会が構成され、その委員長にモーゲンソウが座ると同時に、その事務局長として事実
上の対日占領政策立案の全てを掌握していたのだった。それが発覚すると相前後して、どうした訳か、
彼はこの世を去ってしまった。

ヘンリー・モーゲンソウ(Henry Morgenthau)
URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%82%A6_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)

モーゲンソー・プラン(Morgenthau Plan)
URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
%A8%88%E7%94%BB

※モーゲンソウは、日独の復興を妨げ、産業やインフラを徹底的に破壊しようとしていた。
実に、アメリカの赤いネットワークは、ソ連スターリンのコントロールを受けながら、日独を解体・赤化
しようとしていた事になる。

152:大東亜戦争とコミンテルン
09/01/11 19:02:49 9thQmmqH
戦後マスコミ回遊記 柴田秀利 著
URLリンク(bookweb.kinokuniya.co.jp)

■敗戦謀略の真相 [赤いネットワーク]

 学生時代からモスクワ芸術座の演出とドラマトゥルギーの熱心な学徒だった私にとって、これ
以上にスリリングな政治劇は無かった。東京とワシントン(※そして恐らくはベルリンも)の双方で
渦巻いていた、絵に描いたように見事な二つの相似形のクレムリン・スパイ・リングが、単なるス
パイではなく、遙かに高度な政治謀略の役割を担って、世界革命への台風の目となって、着々と
進行していたことが、これで見事に浮かび上がってきたのだ。尾崎秀実・ゾルゲ事件のもたらした
教訓が、いかに偉大なものであったか、感慨ひとしおという他はない。

■消された老兵
(中略:要約 マッカーサー元帥がトルーマンの奸計により更迭されたエピソードを紹介し、まるで
真珠湾攻撃を事前に知っていたルーズベルトと同じやり口だ、と評論)

 マッカーサー元帥はアメリカに帰国して、米議会であの有名な「老兵は死なず、消え去るのみ」の
演説をしたあと、三日連続して軍事・外交合同委員会で詳細な証言を行った。その時発行されたニュ
ーズ・ウィークの特集号が、最大限の努力を集結して報道した中で、ハッキリと謳い上げたことがあ
った。それは、帰国に当たって、マッカーサーが日本から船で持ち帰った数々の宝物の中で、一番
大切で、しかも大半を占めたものは、尾崎・ゾルゲ特別調査委員会が集めた、膨大な資料の山だっ
たという指摘であった。
 これが読売争議を切っ掛けとして始まったマッカーサー並びにGHQ幹部との結びつきが描き出した、
占領下での数々の想い出にピリオドを打つべき一大異変だったと言える。

153:戦後マスコミ回遊記
09/01/13 04:25:32 ypHReu/7
柴田秀利氏のホームページ (1986年、69歳歿)
URLリンク(www.hm2.aitai.ne.jp)

[ ENGLISH ] Profile of Mr. Hidetoshi Shibata
URLリンク(www.hm2.aitai.ne.jp)
戦後、日本の復興を自分の使命とし、新聞、ラジオ、
テレビのメディア界を縦横に疾駆した柴田秀利氏の紹介です。

柴田秀利氏は、終戦直後の混乱期から、新聞、ラジオ、テレビのメディア界を中心に活躍したマルチ
ジャーナリストです。柴田氏はこの間に皇室と親交を深め、GHQ、さらにこの関係を利用しアメリカ
国内等に広範囲にわたる人脈ネットワークを築き上げ、また、この結果、吉田茂首相をはじめ、日本
の政府要人とも広く交友関係を結びました。そして、こうした人脈と卓抜した企画力を駆使して日本の
復興に多大の貢献をしました。特に、柴田氏は、戦後の混乱期に発生した戦後最大の労働争議であ
る"読売新聞社労働争議"の解決、日本のテレビ時代の幕開けとなった"日本テレビ放送網株式会社
の設立"、また、将来の重要な項目でもある"原子力平和利用時代"、さらに、ゴルフブームの仕掛け
を演出した「戦後時代のプロデューサ」です。

ノンフィクション作家、佐野眞一さん柴田秀利さんを語る
URLリンク(www.voyager.co.jp)

『戦後マスコミ回遊記』 は電子本としてボイジャー理想書店より出版されています。
URLリンク(www.voyager.co.jp)

『戦後マスコミ回遊記』オンデマンド印刷本
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154:赤色スパイ団の全貌
09/01/13 20:21:48 Vd8HQH2r
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
URLリンク(www.bk1.jp)
URLリンク(www.jstor.org)
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GHQ参謀部情報第2部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)

ウィロビー報告 - ゾルゲ事件
モスクワ - 上海 - 東京 - サンフランシスコ - ニューヨーク

 ゾルゲ事件は日本の運命を左右し、今日に至らしめた!火を吐く熱戦の裏に、不気味な
冷戦の陰に間断なく暗躍する第二、第三のゾルゲがいる!
 スターリン亡き後、ソ連は再び如何なるスパイ網を張り巡らさんとしているか?

(マッカーサー元帥序文より一部抜粋)
・・・ゾルゲ事件は、単に東京に於て終始した局部的なものではなく、ソビエト連邦が中国を
中心とする極東謀略全体に関連しているものであって、世界的規模の陰謀を背景として考察
されねばならない。また、ゾルゲ・スパイ団の最も活躍した中国・上海は、世界制覇を目的
とする狂信的共産主義者の温床であった。今日の中国の完全赤化へと発展した所以である。

155:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/14 20:20:31 6BJY4Yio
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
GHQ参謀部情報第2部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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序文

 ウィロビー少将の著書”SHANGHAI CONSPIRACY”は、リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge)事件
を扱ったもので、本書は、今日尚行われている世界的規模の共産主義のサボタージュ(sabotage)
及び裏切り行為を鮮明に描いている点で重要な意義を持つものであると信ずるものである。
 われわれの日本占領期間中、軍情報部は日本警察の協力を得て、日本内外の共産主義勢力に
対する警戒と監視の任務遂行上、若干の民間業務を行ったが、その対象の一つにリヒャルト・ゾル
ゲを首謀者とするソ連スパイ団に関する事件があった。この事件は、諜報の発展、技術及びその
方法に於いて成功を収めた一例である。この陰謀に加担した人間は、中国、日本、米国にわたり、
その活動期間は1931年より1950年の間続けられていたものであった。
 ワシントンに送られた本件に関する調書は、数百万語の多くにのぼり、写真原板、複写及び図表等
参考物件の数も無慮数百に及んでいる。本事件は、米国の法律家によって再審議を受け、確認され、
更に目下上院及び下院の国内安全及び非米活動の両委員会によって採り上げられているのである。
 ゾルゲ事件は、単に、東京に於いて終始した局部的なものではなく、ソビエト連邦の中国を中心とす
る極東謀略全体に関しているものであって、世界的規模の陰謀を背景として考察されねばならない。
また、ゾルゲ・スパイ団の、最も活躍した上海は、世界制覇を目的とする狂信的共産主義者の温床で
あった。今日の中国の完全赤化へと発展した所以である。

1952年1月 ニューヨークに於いて  ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)

156:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/15 19:33:26 T9W8SGXM
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
GHQ参謀部情報第2部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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-極東陰謀に関する東京報告-

 太平洋戦争勃発の直前、ソビエト連邦(USSR: Thw Union of Soviet Socialist Republics)赤色ス
パイ団の一味が、日本に於いて検挙された。この、リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge)を首魁とする
赤色陰謀団は、世界スパイ史上空前のものといわれているのである。首謀者達の多くは既に死ん
でいるが、未だに捕らえられていない者もある。生き残っている一味の者は、現在も世界の何処か
で諜報活動を続けていることであろう。

 ゾルゲ及びその一味の仕事は既に歴史に属しているが、彼らの仕事の方法は現在及び未来
の警告となり得るに充分である。

 9カ年の長きに渡って、彼らは精神的祖国ソ連=ロシアの為に日本に於いて、巧妙且つ大胆なスパ
イ団として働いていた。(中略)諜報団の組織構成員は、その都度必要に応じて変化はしたが、主要メ
ンバーは殆どゾルゲが上海に於て集めた者で、それがそのまま日本に於いてその中核となっている。
ゾルゲ及び彼の参謀尾崎秀実は1929年より1941年に至る間、中国及び日本に於いて、ソ連のスパ
イとして活躍した。(要約:1931年の満州建国によりソ連の関心が中国から日本へ移り、この為、ゾル
ゲは新任務を帯びて日本へ潜入した)ゾルゲはそれまで日本の土を踏んだことが無かった。しかし、彼
はその日本で、完全無欠とも言うべき諜報網の樹立に成功したのである。これは尾崎秀実の存在が重
要な役割を果たしていると見なければならないであろう。

157:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/15 20:14:19 T9W8SGXM
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
GHQ参謀部情報第2部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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-赤色スパイ団の首魁リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge)-

 職業的共産党員としてのゾルゲの経歴は1924年に始まる。当時、彼はドイツ共産党員の間でも
既に名声を博していたし、ソ連の指導者たちからも尊敬されて重視されていた。彼は才能を認められ
てモスクワ(Moskva)に招かれた。彼はドイツ共産党から脱党してロシア共産党に入党し、コミンテル
ンの一員になった。当時コミンテルンは、国際共産主義の相当の重要な指導団体であった。ソ連に
於けるゾルゲの支持者はロシア共産党及びコミンテルン(Komintern)の幹部級に多かった。
ドミトリー・ザカロヴィッチや当時ロシア共産党中央委員の要職にあったマヌイルスキー、現在モロトフ
の下で外務人民委員会副委員長兼中央委員であるソロモン・ア・ロゾヴォスキー等もゾルゲの援助者
であり、支持者の一人であった。(中略)
 ゾルゲは3年の間、コミンテルンのモスクワ本部で働いた。即ち、1927年から国外での仕事に携わ
ったのである。(中略)

 (要約:スパイ活動と組織を切り離すためにゾルゲはコミンテルンから赤軍情報部へ移籍した)

 以後、ゾルゲはソ連軍最高情報機関であるところの赤軍参謀本部第四局に配属されて、諜報活動
に専念したのである。

158:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/17 04:49:31 iEr5nKMq
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
GHQ参謀部情報第2部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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第一部 ゾルゲ・スパイ団  -日本警察の記録-

日本警察の記録に依れば、ゾルゲ事件に連座した次の人間が検挙されている。

北林トモ 57歳 洋裁師 1941年9月28日検挙
宮城与徳 40歳 画家 1941年10月10日検挙
秋山幸治 53歳 無職 1941年10月13日検挙
九津見房子 53歳 会社員 1941年10月13日検挙
尾崎秀実 42歳 満鉄嘱託 1941年10月15日検挙 ★
水野成 33歳 雑誌記者 1941年10月17日検挙
リヒャルト・ゾルゲ 48歳 新聞記者 1941年10月18日検挙 ★
マックス・ゴットフリート・クラウゼン 44歳 製造工業者 1941年10月18日検挙
ブランコ・ド・ヴーケリッチ 38歳 新聞記者 1941年10月18日検挙
河合貞吉 42歳 会社員 1941年10月22日検挙
田口右源太 40歳 ブローカー 1941年10月29日検挙
アンナ・クラウゼン 43歳 無職 1941年11月19日検挙
山名正美 41歳 会社員 1941年12月15日検挙
小貝マサアキ 26歳 学生 1941年9月28日検挙
ハガ・ユー 44歳 研究所嘱託 1941年10月12日検挙
松本亀之助 50歳 ブローカー 1941年10月13日検挙
松本イツヲ 21歳 支那問題研究所員 1941年10月18日検挙

159:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/17 05:34:15 iEr5nKMq
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
GHQ参謀部情報第2部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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第一部 ゾルゲ・スパイ団  -日本警察の記録-

日本警察の記録に依れば、ゾルゲ事件に連座した次の人間が検挙されている。

高橋ゆう 32歳 満鉄社員 1941年10月22日検挙
篠塚虎雄 41歳 工場主 1941年11月14日検挙
武田タケシ 39歳 労働者 1941年11月24日検挙
武田トシオ 31歳 無職 1941年11月24日検挙
船越壽雄 41歳 支那問題研究所員 1942年1月4日検挙
川村好雄 33歳 満州日日新聞 1942年3月31日
小代好信 34歳 会社員 1942年4月11日検挙
安田徳太郎 45歳 医師 1942年6月8日検挙
田中慎次郎 43歳 無職 1942年3月15日検挙
菊地八郎 31歳 戦地特派員 1942年3月16日検挙
西園寺公一 37歳 前外務省嘱託 1942年検挙 ★
犬養健 47歳 衆議院議員 1942年4月4日検挙 ★
海江田久孝 35歳 満鉄社員 1942年4月11日検挙
後藤憲章 44歳 満鉄社員 1942年検挙
宮西義雄 33歳 満鉄調査部員 1942年4月13日検挙
磯野清 36歳 戦地特派員 1942年4月28日検挙

東条英機首相は事件の早急な調査を命じたが、警察はゆっくりと構えていた。
検挙された人間は比較的にすらすらと白状したので、有罪者と無罪者を区別するには困難
は無かった。

160:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/17 22:33:19 GQjDbD8Q
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
元米極東軍司令部(GHQ)情報部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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第二部 ゾルゲの手記 -私の諜報組織の一般的性質- コミンテルン諜報部

 国際共産党を指導する政治上、組織上の諸決定の基礎を作った三大部門の一は、コミンテルン
情報部である。コミンテルン情報部は1925年に創設され、次第に拡張された。私はその拡張の
仕事を、積極的に手伝った。
 コミンテルン情報部の仕事は、国際共産党に関する各種の報告を定期的に作成し、また特殊な
党問題を取り扱い、民族的労働運動や各国の政治経済状態の報告、時には国際的な特殊問題
に関する報告を編集することであった。
 これらの報告は、コミンテルンへ連絡してきた各国の党代表や新聞雑誌から材料を得た。旅行者
や代表者から持参された報告もあった。だからコミンテルン情報部長の職に就く者は、例えばクーシ
ネンのような長年国際的経験を積んでいる党同志であった。部長の下に書記局があり、書記長が宰
領した。書記局内の区分は、ヨーロッパ、英帝国、北米、南米、西太平洋諸地域を含めた東亜であっ
た。更に細分して、例えばヨーロッパ群は、ドイツ語使用諸国とそれらの党、フランス語使用諸国、
フランス及びイタリア、スペイン等とそれらの党といった具合である。東亜は、中国、日本、朝鮮及び
蘭領東インド諸島があり、他の群小地域にある諸党は一括し、一定の事務所に於いて統一されていた。
 主要な国際問題は特に指名された者によって取り扱われた。特に指名された者は書記局の情報課
の直接の指導の下に仕事をした。(中略)
 特別の場合にはソビエト共産党の代表者が書記局の会合に出席し、時には赤軍の要員がゲリラ運
動に関しての軍事問題の参考とする必要のある場合などには出席した。(中略)
 1928年私はコミンテルンの第二世界会議の政治委員会に出席した。

161:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/17 23:15:54 GQjDbD8Q
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
元米極東軍司令部(GHQ)情報部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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第二部 ゾルゲの手記 -コミンテルン及びソビエト共産党- 党とコミンテルンの関係

 私が日本で運用した諜報団は、ソ連共産党の特別支部であった。団員は、金銭私利の為では
なく、共産主義の為に働くのだと公言していた。この状態が、ソ連共産党とコミンテルンの関係、
今日非常に重大な世界共産主義運動に於ける両者の役割を説明している。
 コミンテルンは党ではなくて、民族的共産党の世界的機関である。それは各党を代表する多数
の部から成立している。その一はソ連共産党部である。

         その目的は全世界を単一の共産社会にすることである。

つまり世界共産化を目標とする世界的機関である。世界的ソビエト連邦を組織することである。
生産手段の私有を廃し、階級的搾取と圧迫を廃し、人種的圧政を廃し、全民族を単一の大計画
に基づいて結合することである。コミンテルンによる総合的指導がなければ、その各部は異種の、
甚だ均衡のとれない、人種的モザイクの社会を現出する事になってしまうだろう。

※スターリンの独裁体制を全世界に拡大することがコミンテルンの使命であった事が分かる。
※ゾルゲは、スターリンが自分の仕事を高く評価しているから、日本とソ連との間に妥協が成立
した場合には釈放されるだろう、と自慢していた。

162:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/18 00:42:49 3Ws+RoP+
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
元米極東軍司令部(GHQ)情報部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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第四部 上海陰謀

 リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge)の供述書を綿密に検討すれば、その陰謀の中心点が、中国
にあることを暗示する言語が多分に含まれている。この点に関心を持った東京に於ける情報部
(G2)は、問題の焦点を上海に向けたのである。
 ゾルゲ供述書にあるものの中で、引用されている言語は短いのだが、非常に暗示に富んだ重要
なものがある。それは上海に於ける諜報諸機関について述べている箇所を指すものであって、即ち
レーマン・グループ、フロリッヒ=フェルデマン・グループ、コミンテルン・グループ及びヌーラン事件
等である。
 この内、コミンテルン・グループは特に重要な機関のようである。このグループは、汎太平洋通商
同盟(PPTUS)書記局のことであった。更に詳細に調査した結果、この機関の曾ての指導者に、元
米国共産党首のアール・ブラウダーという男が籍を置いていた事が分かった。彼の後任にはユージン・
デニスがなっている。その他、このコミンテルン・グループには、アメリカ共産党の闘士、H・J・ドルソン
とかゲルハルト・アイスラーとか、上海で検挙されたヌーランとか、著名な共産党地下工作員がいた。
 この事件が、もし、現在我々の国で活躍中の著名な共産党員にまで、その類を及ぼしたなら、その
歴史的価値は更に増すことであろう。
(※その後、チェンバーズ・ヒス事件など、想像以上の規模のスパイ・リングが明らかとなった)
(中略)
 かくしてマッカーサー情報部は、ゾルゲ・スパイ団が上海で活動した後、東京に移ったこと、その
命令は赤軍第四本部から出ていること、そして結論としては、ソ連及びコミンテルンの国際陰謀の
一環としての諜報活動であること等について認識することが出来たのである。
 上海は、共産主義諜報活動及び政治的破壊活動の中心地であった。

163:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/18 01:34:52 3Ws+RoP+
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
元米極東軍司令部(GHQ)情報部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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第四部 上海陰謀 (※中国-日本-アメリカにまたがる広汎なスパイ活動の概要)

■上海工部局警察の記録 - 共産主義団体など。特にアグネス・スメドレー。
■中国に於けるアメリカの共産主義者 - 上海はサボタージュと破壊活動の中心地
 1927年、第3インターナショナル主催の会議が漢口で開催。
■太平洋問題調査会 - ギュンター・シュタインら。尾崎秀実が調査会と交渉を持っていた。
 日本支部:平野義太郎ら中国研究会と密接に連携。アメリカ人も多数関係。
  他、政治経済研究所、中日親善協会、日ソ親善協会、中日通商促進協会など。
  (類似の名称の団体がアメリカ国内にも存在した。)
■ユージン・デニス別名ポール・ユージン・ウォルシュについて
 =元アメリカ共産党党首アール・ブラウダーの直弟子、秘書、後継者。
  アール・ブラウダーがコミンテルンの上海機関(=汎太平洋労働組合書記局:PPTUS)を創設
■ヌーラン事件と逃亡者ゲルハルト・アイスラー
 タイム誌がアメリカ国際赤色救援会について小型クレムリンの副題を付けて報道。
■コミンテルン機関について - 1930年代のコミンテルンのモスクワ本部はソビエト政府組織と並行
■クレムリン直系の国際団体
 プロフィンテルン(Profintern)、クレスティンテルン(Krestintern)、ヴォクス(VOKS)、モップル(MOPR)
 ・アメリカに於けるモップル=国際労働擁護会(I・L・D)
■アメリカ人権擁護委員会(THE AMERICAN CIVIL RIGHTS CONGRESS)
■国際革命著作家同盟(IURW) - VOKSの後援によって知識階級の同調者を獲得する為に結成
 (※ミュンツェンベルク・トラストの言うところの、”イノセンツ・クラブ”である)
■中国の共産党及び共産系諸団体 - 汎太平洋労働組合書記局=コミンテルン・グループ
 ヌーラン防衛委員会、ソビエト友の会、中国友の会、中国人権擁護連盟、反帝連盟

164:SHANGHAI CONSPIRACY
09/01/18 02:41:09 3Ws+RoP+
Shanghai Conspiracy (上海の陰謀) = 赤色スパイ団の全貌―ゾルゲ事件 (1953年)
元米極東軍司令部(GHQ)情報部(G2)部長C.A.ウィロビー少将 (著), 福田 太郎 (翻訳)
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第一部 ゾルゲ・スパイ団 - 尾崎と国際問題 (※尾崎秀実の敗戦革命への謀略について)

(前略)日本は英・米と衝突する運命にある。緒戦では日本が優勢であるかも知れないが、日本の
経済的脆弱性の故に、また長引いた支那事変の為に、国力が消耗しているから、その優勢も長く
は続かないという解釈をしていた。この予言は1942年3月3日の、尾崎への訊問中にただされた
ものである。(※尾崎秀実「東亜に於ける新秩序」)
(中略)
 第二次大戦により負け、または疲弊した列強は社会主義革命を経る。私(尾崎)は世界革命にま
で導く過程を、次のように考える。
(一)ソ連は平和政策を維持するべきであり、そうするだろう。そして帝国主義列強の紛争には超然
たる態度をとるであろう。
(二)日独伊と英米間の紛争は、修正資本主義国家と真の帝国主義国家群との闘争と解せられ、
長期消耗戦の後に一方側の勝利となり、他方には社会主義革命が起こる。
(三)勝った国家も疲弊して、多分、社会主義国家となる。ことにロシアの勢力が比較的増進される。
(中略)私はこの予言を、1941年7月にゾルゲに話した。

※尾崎秀実は日本を対米英の破滅的戦争へ誘導し、レーニンの”砕氷船理論”を推進し、敗戦革命
する事を夢見ていた。この結果、300万人以上の日本人が死亡し、日本国土は焦土と化した。

165:アグネス・スメドレー
09/01/23 00:24:28 guSTHks4
アグネス・スメドレー (Agnes Smedley, 1892年2月23日 - 1950年5月6日)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アメリカ合衆国のジャーナリスト、ソビエトのスパイ。
中国大陸の近代事情、特に中国共産党に関する著作で知られる。

スメドレーはアーネスト・ブラディン(Ernest Brudin)と結婚し、カリフォルニア州へと移住した。この地
で社会主義の思想に触れた彼女は、6年後に離婚するとニューヨークへと向かった。ニューヨークで
はマーガレット・サンガーと共にBirth Control Review誌で働いている。インド人の共産主義者ヴォレン
ドラナート・チャットパディア(Virendranath Chattopadhyaya)と関係を深めると、彼とともにドイツへ渡っ
た。1929年には初の自伝を書き上げている。

チャットパディアと分かれたスメドレーは次なる興味の目標を中国大陸へと定め中華民国の上海へ向
かった。上海ではソビエト連邦のスパイであったゾルゲと親密に親交し(性的・肉体関係もあった)、後
に彼の協力者となる尾崎秀実を紹介した。尾崎はスメドレーの著作を日本語に翻訳している。このよう
な経緯から、マッカーサーの部下であったチャールズ・ウィロビーはスメドレーをソビエトのスパイであ
ると主張していた。スメドレーはこの主張に対し戦後告訴を試みているが、最近の研究ではこの疑惑は
真実であるとされている。

※ゾルゲ・スパイ・リングはこうしてスターリンのソ連・コミンテルンの指令の下、中国、日本、アメリカに
またがって活動していた。

166:「ゾルゲ事件」報告書
09/01/24 13:06:31 w99zpcr0
【米国公文書】ゾルゲ事件資料集 -「ゾルゲ事件」報告書 GHQ・CIS編-
URLリンク(www.shahyo.com)

序文

 ゾルゲ事件で主導的役割を果たしたリヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実、宮城与徳は最早この世に
いない。事件そのものが過去の出来事となっている。だが、それは重要な出来事であり、裁判終
結以来、日本の内務省や司法省に放置されていた、秘密記録文書の中に埋もれてしまうには重
要さが過ぎる。そこからは高度な諜報活動の古典的事例が知られる。そこでは共産主義思想の
ある種の並々ならぬ面を率直に浮かび上がらせている。そこからは日本政府の要人の部屋で展
開された葛藤や、戦前数年間の外交に関する情報が得られる。その重要性故に、この事件を研
究用に明かすことにした。

167:「ゾルゲ事件」報告書
09/01/25 01:08:37 L+0KRfAR
【米国公文書】ゾルゲ事件資料集 -「ゾルゲ事件」報告書 GHQ・CIS編-
URLリンク(www.shahyo.com)

二 リヒャルト・ゾルゲ

 1924年にゾルゲはフランクフルトでのドイツ共産党秘密総会に出席した。彼はコミンテルン代表
のヨシフ・ピャトニツキー、ドミートリ・ザハロビッチ・マヌイリスキー、オットー・ウィルヘルム・クーシネ
ンとソロモン・アブラモビチ・ロゾフスキーをもてなすための歓迎委員会の一員となった。年末にかけ
てこのソ連代表達の招待でゾルゲはモスクワに送られた。ゾルゲはドイツ共産党を辞めてソ連共産
党入りをし、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の情報部の一員となった。

 ゾルゲは1927年にはスカンジナビアと英国にコミンテルンの情報・組織局の特別代表として派遣
された。1929年まで留まって、スカンジナビア諸国や英国の共産党と協働して労働問題や共産主義
活動に関する情報を集めた。

※ゾルゲの祖父、アドルフ・ゾルゲはマルクスの第一インターナショナル時代の組織で、カール・マル
クスの秘書をしていた。

168:「ゾルゲ事件」報告書
09/01/30 03:17:23 61JRsfc3
【米国公文書】ゾルゲ事件資料集 -「ゾルゲ事件」報告書 GHQ・CIS編-
URLリンク(www.shahyo.com)

 1929年の5月か6月にモスクワに戻ったゾルゲは、共産党関連の情報活動からの離脱を
申し出た。政治、経済、軍事情報の収集に特化したかったのである。自分の活動の場は極東、
と決めた。コミンテルン情報部を去った彼は、ソ連の赤軍第四部に配属され、早速第四部内で
極東諸国、殊に日本の政治、外交、財政、経済、軍事、他の資料を集める組織の結成に着手し
た。こういうわけで、彼の仕事の成果がコミンテルンにもたらせるのは、間接的にソ連政府を
通してのみとなった。ゾルゲはこの立場の変更を次のように説明した。

 「ソ連共産党はコミンテルン指導部よりも、影響力が強まりました。今日、実際に共産労働
運動の旗振りをしているのはソ連共産党です。このことは現実的にソ連共産党の指導者とコミ
ンテルンの指導者との関係を見れば分かります。」

169:田母神論文と国家観
09/02/03 23:17:59 h+OwNEvj
財団法人 日本学協会 『日本』平成21年2月号
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田母神論文が提起した国家観と侵略戦争論議 永江太郎 軍事史学会監事

■はじめに
 今年も、間もなく「建国記念の日」を迎える。しかし、多くの日本人は、「建国記念の日」は
知っていても、国家建設を成し遂げた人物は誰なのか。神武天皇が掲げられた建国の理想は
何か。今年が二千六百六十九年と算定される根拠は何か。これらの質問に明確に答えられる
人はほとんどいないであろう。何故なら、学校教育で全く教えられていないからである。
私が教える短期大学の学生は勿論、交流のある自衛隊の幹部ですら知らない人の方が多い。

 田母神論文が提起した問題の一つは、一旦緩急の際に自分の命も家族への思いも断ち切って
国を守る覚悟が求められている自衛官が、部隊全員一丸となって国家に殉じる覚悟をどうして
育てるかという深刻な悩みである。

170:田母神論文と国家観
09/02/07 21:35:11 99KRlBfA
財団法人 日本学協会 『日本』平成21年2月号
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田母神論文が提起した国家観と侵略戦争論議 永江太郎 軍事史学会監事

■はじめに(2/2)
 では、自衛官が命を捧げても悔いが残らない日本国家とは何か。少なくとも制度としての
民主主義や社会主義或いは憲法といった時代によって変わるものでなく、その底流にあって
長い歴史と伝統をもつ生命体としての国家そのものの筈である。例えば、かって戦後の我が
国を風靡した社会主義も、ソ連邦の建国からわずか八十年で自壊したことで、その誤りが露
呈された。しかし、社会主義国家の建設から崩壊までの間に散った何千万という人々の犠牲
は一体何だったのか。同じ過ちを自衛官に繰り返させてはならない。

 一方、我々の父祖が命懸けで護ってきた日本という国家は、防人の時代も元寇の時代も日
清・日露戦争や大東亜戦争の時代も、そして今日も全く同じ日本国である。我々の父祖が後
に続く我々に期待しているものは、このように建国から今日まで連綿と続く国家であること
に思いを致した時、はじめて使命観・死生観が芽生えて、国家に殉ずる覚悟が生まれてくる
ものである。これはかって自衛隊に勤務した私自身の実感である。

171:田母神論文と国家観
09/02/08 13:03:22 /zR4nfWE
財団法人 日本学協会 『日本』平成21年2月号
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田母神論文が提起した国家観と侵略戦争論議 永江太郎 軍事史学会監事

■如何にして国家観・歴史観を学ぶか(1/2)
 最近、野球並の人気を博している日本サッカーのシンボルマークは八咫烏(やたがらす)
であるが、八咫烏が神武天皇の御東征を先導して勝利を齎もたらした縁起の良い鳥である
ことは知らない。ましてや神武天皇が橿原で宣言された建国の理想が「八紘一宇、民の利益
になることであればどんなことでも行なって、国の隅々までを一つの家族のように治める」
ことであったことは教えられていない。これらの建国神話や伝説は、それが史実であるか
どうかよりも、国史を編纂した当時の我々の祖先が、そう信じていたという事実が重要な
のである。

 古代日本における海外進出として有名な神功皇后の朝鮮出兵についても、神功皇后が軍
令の遵守のほかに「略奪や婦女暴行を厳しく戒め、さらに降伏してきた捕虜は殺すな」と命
令されたことは知られていない。このような掠奪暴行を禁じた軍令が出された四世紀後半
期は、ヨーロッパではローマ帝国が東西に分裂した時代、アジアでは支那の王朝が最も目
まぐるしく入れ代わった五胡十六国時代という戦争の全てが略奪戦争だった時代であった。
建国に続く国土統一事業や海外進出といった古代日本の勇壮なロマンと当時の人々の心情
は、『日本書紀』や『万葉集』という原典を繙(ひもと)かなければ到底理解出来ないが、
我国の道徳心の高さは、このように古代から世界に卓絶していたのである。

172:田母神論文と国家観
09/02/11 00:46:18 p/yz462i
財団法人 日本学協会 『日本』平成21年2月号
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田母神論文が提起した国家観と侵略戦争論議 永江太郎 軍事史学会監事

■如何にして国家観・歴史観を学ぶか(2/2)
 近世になってからも、イギリスやオランダが東インド会社を設立して本格的な植民地経営に
乗り出した頃、朝鮮に出兵した豊臣秀吉は、その軍令で「放火や乱暴狼藉を厳しく戒め」さらに
「飢餓に苦しむ者の救援や捕らえた者は在所に返す」よう命じている。これらは一例に過ぎない。
我が国が歴史的に「道義国家」であると自負する所以である。
 少なくとも、幹部自衛官を育てる防衛大学校や自衛隊の部内教育で教えるべきことは、戦後
教育の中で育ってきた自衛官に、我々の父祖が大事に守ってきたものは何か。それは古典から
直接学ぶ方法であろう。雑多な情報が氾濫し価値観が動揺している時代の自衛官は、自ら原典
に接して国家観や歴史観を学ぶしかない。

173:田母神論文と国家観
09/02/12 20:22:41 tFSo6Rzq
財団法人 日本学協会 『日本』平成21年2月号
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田母神論文が提起した国家観と侵略戦争論議 永江太郎 軍事史学会監事

■田母神論文が提起した侵略戦争論議(1/3)
 田母神氏の論文は、マスコミには悪評であるが、支持する人も多く講演依頼が殺到
しているとの事である。私も田母神論文に対する意見を、本誌十二月号に投稿したが、
論旨は大筋では間違っていないと述べただけで、肝心の村山談話の当否は論ぜず、
政府見解に過ぎない歴史観を自衛官に強要しようとする防衛省の過剰な反応の批判に
留めた。

 そこで、本稿では「日本の戦争は侵略戦争だったのか」という本質的な問題を論じて
置きたい。戦後の政治を侵略戦争論議の視点で大観すると、我が国の戦争に対する見
方が中曽根内閣を境に大きく変わったことが分かる。その原因は、中曽根内閣までの
戦後前半期の政治家や官僚は、そのほとんどが戦争に直接参加していたので、これら
の戦争経験者は、自分達が戦った戦争が侵略戦争であったかどうかを自分の体験によ
って肌で理解していた。大平首相が語った「侵略戦争か否かの判断は後世の歴史家の
判断に委ねる」という発言には、侵略戦争ではないという確信が秘められていたのであ
る。

174:田母神論文と国家観
09/02/14 01:05:36 JfE4ARiZ
財団法人 日本学協会 『日本』平成21年2月号
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田母神論文が提起した国家観と侵略戦争論議 永江太郎 軍事史学会監事

■田母神論文が提起した侵略戦争論議(2/3)
 しかし、戦後後半期の政治家や官僚は戦争の実態だけでなく軍事的知識そのものが欠落
している。そのため、国家の何を守るのか、どうすれば守れるのか、ということに思いを
めぐらせることが出来ない。その実害は、近隣諸国条項、慰安婦問題、化学兵器処理、
村山談話という四大失政となって現れた。失政と断定するのは、それが史実を無視、若し
くは歪めているからである。

 例えば慰安婦問題については、強制連行でなかったことは戦争経験者には周知の事実であ
る。この問題の最高責任者であった内閣官房副長官石原敏雄氏や直接の担当者平林外政審議
室長が「強制連行を裏付ける資料は証言を含めても全くなかった」と証言したのは当然である。
そのため「第一次案では強制連行を認めていなかったが、韓国政府が猛烈に反発・抗議したの
で、朝鮮人慰安婦の証言を裏付け調査をせずに採用し、強制連行を認める河野談話を発表し
た」のである。(石原証言)

 遺棄と称する化学兵器も、現在処理作業中のハルパ嶺の化学兵器は、終戦時の武装解除で
ソ連軍に引き渡したものであることは軍事的常識である。埋めたのが中共軍自身であること
も判明している。それにも拘わらず遺棄を認めて、その処理に膨大な国費を浪費している。

 「近隣諸国条項」と「村山談話」が、ともに認めている「侵略戦争」についても、言葉だけが先
行して、その根拠は全く示されていない。

175:田母神論文と国家観
09/02/14 22:27:20 JfE4ARiZ
財団法人 日本学協会 『日本』平成21年2月号
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田母神論文が提起した国家観と侵略戦争論議 永江太郎 軍事史学会監事

■田母神論文が提起した侵略戦争論議(3/3)
 まず言葉の定義からみると、国語辞典によると「シンリャク」には、侵掠と侵略の二つ
があり、侵掠とは侵入(入る込むべきでない処に無理に入る)して「財物」を奪うこと、
侵略とは他国に侵入して「領地」を奪い取ることとなっている。この定義に従えば、支那
事変や大東亜戦争で、日本は中国や東南アジアにおいて、寸土もその領地を奪ってはい
ない筈である。村山談話の誤りは、当時の官房長官武村正義氏が記者会見で述べた、
侵略とは「他国で他国政府や民衆の意に反し、軍事行動を展開し、人的物的にも多大の
迷惑をかけること」という迷定義に立脚しているからである。

 次に、中国内陸部まで侵入して「現地の中国人に多大の苦難を与えた」という点につい
ても、大陸の奥地まで日本軍を誘致して戦うことは、蒋介石の(空室清野)戦略であった。
蒋介石の側近であった薫顕光が、その回想録で「蒋介石の戦略(揚子江の線から奥地まで
三線の抵抗線を築く) は、一種の焦土戦術で、中国軍の放棄した地域には敵の利用する
家屋も食糧も残されてない。これは実に巧妙な作戦で、その後の戦局の推移は蒋介石の
考えの正しかったことを証明している。この計画が最後の勝利を齎もたらすまでには中
国の民衆は長い年月の苦痛に耐えねばならなかった」と書き残している通りである。
現地に置き去りにされた中国人の苦痛は、彼らのために残すべき何物も残さず持ち去っ
た蒋介石の焦土戦術にあったのである。

176:共産主義黒書
09/02/16 21:23:38 VnjVW50+
共産主義黒書―犯罪・テロル・抑圧 コミンテルン・アジア篇    クルトワ,ステファヌ
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ロシア革命の世界革命化を狙ったコミンテルンと、人類史上未曾有の犠牲者を生み出し
た アジア共産主義の現実

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は、
  ソ連2000万、   ★中国6500万、  ベトナム100万、   北朝鮮200万、
  カンボシア200万、東欧100万、    ラテン・アメリカ15万、アフリカ170万、
  アフガニスタン150万   を数え、合計は1億人に近い。

民族・人種によるジェノサイドと イデオロギーによるジェノサイドはどこが違うのか。
        なぜ、共産主義は今日まで弾劾されずにいるのか?

177:共産主義黒書
09/02/17 22:23:09 oQ0Njlmz
共産主義黒書―犯罪・テロル・抑圧 コミンテルン・アジア篇    クルトワ,ステファヌ
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中国の章では、      魯迅が「中国人は食人種である」と書いている

と紹介し、共産主義のテロルの中で処刑では犠牲者を少しずつ切り刻み、生きながらに
その肉片を食らう醜悪な中国の文化も紹介されている。 (※凌遅刑)

ソビエトのスターリン主義者が見た毛沢東主義者の手法、として悪名高い”自己批判”、
”総括”、”粛清”の様式が紹介されている。
(※連合赤軍の山岳ベースリンチ殺人事件はこれの模倣だったと言える)

また、毛沢東の”大躍進”における誤った農業指導(過度に濃密に植える、土地に合わない
作物を栽培させる、害虫を駆除する雀を駆除する)によって恐るべき史上最大の飢饉が発
生したことも紹介されている。1959-1961年の間の餓死は2,000万人~4,300万人
であろうと推測されているという。そして

    凄惨な人肉食が農村で行われていたという言い伝えが紹介されている。

178:共産主義黒書
09/02/19 00:03:26 IaqEoo1Z
共産主義黒書―犯罪・テロル・抑圧 コミンテルン・アジア篇    クルトワ,ステファヌ
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        文化大革命の段では、青少年を毛沢東主義に洗脳し、
          ”紅衛兵”という赤いロボットにしていった歴史

も描かれている。そして彼らが恐るべき非人間性を発揮し、”反革命分子”とみなした人間
に対して残虐で下劣な暴力を振るったことが記されている。1966年前後にこのような事態
が中国では起きていたのだが、当時の日本の大学生の中にはこのようなものに憧れ、極
左テロ活動に身を投じていったというのは良く分からない事である。やはり、美化されて伝
えられた結果、実態を知らずに騙されていたのであろう。その紅衛兵も分裂し、内戦状態と
なり、果ては軍隊が投入されて紅衛兵が処刑されていったのである。なんとも救いのない
話である。

     チベットでは数十万人(人口の約10%)が中国によって拘禁され、
          その2%しか生存していないという恐るべき実態

や、ダライラマなどへの宗教弾圧、追放・・などなど、中国の非人道性、残虐さがここでも証
明されている。

  恥知らずな中国共産党は今なおおぞましい人種差別と民族浄化を継続しているという。

179:大東亜戦争と「開戦責任」
09/02/21 21:13:23 pZi3AAXv
大東亜戦争と「開戦責任」―近衛文麿と山本五十六 中川 八洋 (著)
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前編 近衛文麿-「仮面の戦争屋」
 第二章「ハル・ノート」とロシアの積極工作 -財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト-
  第三節 政府高官を覆う赤い工作網 -日米を操作したロシアの「隠れた手(hidden hands)」

 ハリー・デクスター・ホワイトには2人の親友がいた。ルーズヴェルト大統領の行政補佐官ロー
クリン・カリーと国務省のアルジャー・ヒスである。行政補佐官は6名居り、カリーは経済問題担当
であったが、中国など極東問題についてはカリーが独占的にルーズヴェルトに助言していた。
だから、カリーはルーズヴェルトにその親友の一人であるオーウェン・ラティモアを蒋介石に対して
ルーズヴェルトが特派する米国側の顧問に採用させ得たのである。
 L・カリーの部屋にいたその右腕の助手は、グリーンバークという英国共産党員であった。
 L・カリーは又、最後通牒として「ホワイト試案」を採択させるべく狂奔している。O・ラティモアも
この時、重慶から直接ワシントンに様々な圧力をかけ、同時に中国政府を通じて、米国に対して
「ハル試案」に猛反対させた。11月25日付のO・ラティモアのL・カリー宛電文などは、その残って
いる証拠の一部である。
 L・カリーやO・ラティモアの暗躍は、「ホワイト試案」の採択が米国政府の最終の意志決定に、
一部の影響を与えた事は否定できない。とすれば、ソ連の指揮下にあったH・D・ホワイトを含めて
彼ら全員が共産主義者であったことを考えると、「ハル・ノート」は共産主義者の手によって執筆され、
主として共産主義者によって対日最後通牒に採択されたことになる。

180:大東亜戦争と「開戦責任」
09/02/24 20:41:27 tD5S6lSV
大東亜戦争と「開戦責任」―近衛文麿と山本五十六 中川 八洋 (著)
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前編 近衛文麿-「仮面の戦争屋」
 第二章「ハル・ノート」とロシアの積極工作 -財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト-
  第三節 政府高官を覆う赤い工作網 -日米を操作したロシアの「隠れた手(hidden hands)」

 「ハル・ノート」問題は、どうやら日米の2国間に限っての問題ではない。”ソ連の防衛”と
”ソ連の膨張”とを聖なる戦いとするソ連による世界共産主義運動の一環として位置づけられるべき
問題である。日本の真珠湾攻撃に激昂して「不介入主義(アメリカ・ファースト)」を棄てた米国の
世論を背景に、ルーズヴェルト大統領がドイツに宣戦布告した12月8日、奇しくも、ドイツのソ連
攻略は、大寒波とソ連側の反抗とによって、確実に頓挫した。モスクワ陥落に失敗したのである。逆
にこの時、さらに米国の後ろ盾を得て、ソ連の共産体制は、万が一にも倒壊することのない状況とな
り、寧ろ戦後に超大国となる基盤が作られていくことになった。

181:大東亜戦争と「開戦責任」
09/02/25 22:51:22 KlMJZy9v
大東亜戦争と「開戦責任」―近衛文麿と山本五十六 中川 八洋 (著)
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前編 近衛文麿-「仮面の戦争屋」
 第二章「ハル・ノート」とロシアの積極工作 -財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト-
  第三節 政府高官を覆う赤い工作網 -日米を操作したロシアの「隠れた手(hidden hands)」

 ルーズヴェルト大統領の行政補佐官ロークリン・カリーは、自らが「ソ連のスパイ」であるのが
発覚した、ホワイトと同じ日の先述の喚問の後、直ぐにコロンビアに亡命した。O.ラティモア(1900-89)
だけが、ホワイトやカリーと違って、自殺も亡命も選ばず、太々しく生涯「中国専門家」として活躍
した。O.ラティモアは、上院の外交委員会でのマッカーシー上院議員等からの「ソ連のスパイ」とし
ての追及も躱したし(1950)、続いて上院の司法委員会の国家安全保障小委員会での追撃すらも振り切る
ことに成功した(1951-52)。「共産主義者であること」「ソ連や中国共産党のための工作をなした」
数々の証拠は、これを法的に科罰する証拠とは必ずしも同じでない。この弱点がラティモアの犯罪を
無罪放免としてしまったのである。


Lauchlin Currie(ロークリン・カリー) From Wikipedia, the free encyclopedia
URLリンク(en.wikipedia.org)

Owen Lattimore(O.ラティモア) From Wikipedia, the free encyclopedia
URLリンク(en.wikipedia.org)

182:大東亜戦争と「開戦責任」
09/02/26 20:58:53 h+N9ci4v
大東亜戦争と「開戦責任」―近衛文麿と山本五十六 中川 八洋 (著)
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前編 近衛文麿-「仮面の戦争屋」
 第二章「ハル・ノート」とロシアの積極工作 -財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト-
  第三節 政府高官を覆う赤い工作網 -日米を操作したロシアの「隠れた手(hidden hands)」

 世界共産化を夢見て晩年はモンゴルの共産化を研究したラティモアの犯罪隠しと自らの虚像の維持
にかける執念は終生変わらなかった。日本で英語・日本語双方で出版されたラティモアの回想録『中
国と私』(1990-92)はこの種のプロパガンダ(嘘宣伝)の事例である。
 この「ハル・ノート」の決定過程に、最も露骨に親ソ的で前例の無いほどに頻繁にルーズヴェルト
と日々接触している、しかし一切の公的肩書きのないあのハリー・ホプキンズは、関与したのだろう
か、それともしなかったのか。これも明らかにされるべき問題である。が、ホプキンズは胃癌によっ
て1946年1月に死んだ。その死は、ソ連との特殊な関係を持つホプキンズに関する、既に内偵さ
れつつあった様々な調査の動きを中断させた。ホプキンズの真実は、闇に葬られた。「ホプキンズの
神話」だけが地上に遺った。


Harry Lloyd Hopkins(ハリー・ロイド・ホプキンズ)From Wikipedia, the free encyclopedia
URLリンク(en.wikipedia.org)

183:大東亜戦争と「開戦責任」
09/02/27 20:29:09 HPzHeQhW
大東亜戦争と「開戦責任」―近衛文麿と山本五十六 中川 八洋 (著)
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前編 近衛文麿-「仮面の戦争屋」
 第二章「ハル・ノート」とロシアの積極工作 -財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト-
  第三節 政府高官を覆う赤い工作網 -日米を操作したロシアの「隠れた手(hidden hands)」

 例えば、「ホプキンズは原子爆弾製造の機密を”銀皿に載せて”ソ連に貢いだ」などの噂の真偽は
永遠に確かめられることは無くなった。また、ドイツのソ連侵攻の直後、ホプキンズはスターリンの
元に急派されてスターリンの要望通りの兵器とアルミなどの軍需物資の対ソ供与に全力を挙げたよう
に、ホプキンズとは、その第二次世界大戦を通じての行動に於いて米国の「高官」なのか、スターリ
ンの対米密使などか - 誰の目にも後者であったが - この問題が不問になってしまった。

Harry Lloyd Hopkins(ハリー・ロイド・ホプキンズ)From Wikipedia, the free encyclopedia
URLリンク(en.wikipedia.org)

VENONA暗号解読により、1943年5月、アフメーロフ(ソ連のスパイマスターの一人、GPUの全米
責任者)の報告に出てくる、ルーズベルト大統領とチャーチルの秘密の議論に同席した
コードネーム「19」の人物がホプキンズであると考えられている。

184:大東亜戦争と「開戦責任」
09/02/28 17:07:18 FBzGjNV7
大東亜戦争と「開戦責任」―近衛文麿と山本五十六 中川 八洋 (著)
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前編 近衛文麿-「仮面の戦争屋」
 第二章「ハル・ノート」とロシアの積極工作 -財務次官補H・D・ホワイトとルーズヴェルト-
  第三節 政府高官を覆う赤い工作網 -日米を操作したロシアの「隠れた手(hidden hands)」

 ハリー・デクスター・ホワイトのもう一人の親友アルジャー・ヒスは共産主義者であるが、ルーズ
ヴェルトの側近としてホプキンズと共にヤルタ会談に随行した。ルーズヴェルト、スターリン、チャ
ーチルの三巨頭によるヤルタ会談での米国政府代表部に於いて、ハリー・ホプキンズがルーズヴェルト
の側近ナンバーワンの扱いを受け、アルジャー・ヒスはレイヒー提督に次ぎナンバースリーであった
から、ソ連に日本と中国の主権をスターリンの要求のままに次から次へと貢ぐことになった、日本に
とっての痛恨の「ヤルタ秘密協定」のルーズヴェルトの合意にH.ホプキンズとA.ヒスがかなりの影響を
与えただろう事は疑うまでもない。ホプキンズとヒスとは、ルーズヴェルトと共に日本にとって永遠に
許すことの出来ない米国人となった。

ハリー・デクスター・ホワイト (Harry Dexter White)
URLリンク(en.wikipedia.org)

ハリー・ロイド・ホプキンズ (Harry Lloyd Hopkins)
URLリンク(en.wikipedia.org)

アルジャー・ヒス (Alger Hiss)
URLリンク(en.wikipedia.org)


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