大坂の陣への軍事考察 その2at ARMY
大坂の陣への軍事考察 その2 - 暇つぶし2ch800:名無し三等兵
10/12/19 14:02:52
>>799
真田の発言からしても、確かにそうだよな。
まずそもそも、関が原の戦いの時点で、
伏見城は西軍によって徹底的に焼き払われ完全に焼失してしまっているのだが。

801:名無し三等兵
10/12/19 14:46:03
日本の城の場合、跡地に野戦築城すれば8割方城としての役目は果たせそう

802:名無し三等兵
10/12/19 15:03:35
野戦築城では逆茂木や掻揚げの土塁を作ることがせいぜいで、
木の柵程度では一度の攻撃にしか耐えられない。

803:名無し三等兵
10/12/19 15:35:18
>>800
その後に徳川家の天下普請で復興されているのも知らないのか
天守まで再築されているんだが(寛永度に二条城に移築)

804:名無し三等兵
10/12/19 15:55:48
>>803
知っているが、かなり規模が縮小され乱造な作りだ。
大体、家康から見て京都での宿舎以上の役割でしかないのだから、
小規模で手の込んでいない城郭で当然。
二条城のように一揆勢のような暴動や間者の侵入を防ぐことができる程度のレベルの城郭で充分。

805:名無し三等兵
10/12/19 16:02:15
家康による伏見城の再建は、
計画段階からして規模縮小されている。
尚且つ、しばらくして再建を放棄して、
残りの資材は駿府城築城に使用されているわけであって、
大坂の陣時にはほとんど完成されてなかったのだが。

806:名無し三等兵
10/12/19 17:01:34
>>804
全国各地に廃城後の建物を移築したという記録がある大城郭なんだけど
それに伏見城は大坂城を徳川が手に入れるまでの畿内における統治・軍事拠点

>>805
慶長7年より天下普請を行い、以後9年、10年、11年と工事を行っていますが
後、駿府城築城に資材を使ったなんて話はない
金銀・荷物を移動しただけ

807:名無し三等兵
10/12/19 17:33:51
>>802
何言ってんだ? 一度の攻撃に耐えられるなら充分だろ
その間に四方から援軍が来る

だいたい
10月1日に両陣営手切れ

10月8日に真田大阪入城

23日に家康京に到着

というタイムスケジュールだ。大坂方の出撃は、どう早く見積もっても10日。浪人衆の編成に要する時間を考えればもっと後になるかもしれん
京の守りに不安があり、なおかつ大坂から大規模出撃の気配があるなら
京の守備隊も全力で陣地を構築して当たり前。
いや、そもそも、時間的余裕があるならば伏見に篭城する必要すらないか。
山崎あたりに出張って防衛線を引けばいい。
伏見の守りが薄いとか厚いとかの議論は本質的ではない。
問題なのは、大坂方の出撃させうる兵力で、京の南に構築されるだろう防衛線を抜けるかどうかだ。

808:名無し三等兵
10/12/19 18:58:10
>>807
一度の攻撃に耐えるだけでは一蹴される。
そもそもそれなら大坂方の策にのって、
宇治川で対陣する方が東軍側としても安上がり。

809:名無し三等兵
10/12/19 19:00:11
WIKI伏見城項目より

>駿府城の改築の為、翌1606年(慶長11年)頃には伏見城の作事も停止され、器材や屋敷も駿府城へ運ばれていった。



810:名無し三等兵
10/12/19 19:21:18
伏見城再建は、大名屋敷などの各大名の宿泊所を築造することから
先に始められているので、要塞としての設備の築造は二の次のようなんだが。

811:名無し三等兵
10/12/19 20:14:17
>>809
それ間違い
「当代記」には「金銀、段子、金襴以下諸財貨共」
「慶長見聞録案紙」にも「荷物長持以下」
屋敷というのは「当代記」文中の近習が畳や戸まで持っていった事を誤認したのでしょう

812:名無し三等兵
10/12/19 20:17:37
>>810
五年もあれば両者とも十分復興しています

813:名無し三等兵
10/12/19 20:56:02
>>811
なら、先にWIKIの記述を訂正して来いw

814:名無し三等兵
10/12/19 21:16:22
>>812
5年だけでは復興できていませんw

815:名無し三等兵
10/12/19 21:44:52
>>813
自分にそんな義務はないんだが
>>814
へー、秀吉の時は1年少しで完成したのに?

816:名無し三等兵
10/12/19 21:50:55
>>815
財力が違うし、何より家康にとって必要なのは>>804>>810にある通り。
それにwikiの記述を訂正する義務がお前にある。

817:名無し三等兵
10/12/19 22:16:39
>>816
具体的にどう違うの?
それに家康の方は基本的に建物建て直すだけで良いんだけど
後、家康は駿府城に移るまでは江戸城より伏見城多くいたから
その意味でも防備を固めるのは当然

そんな義務はないがしたい奴がするのがウィキ
ヤレというなら金を出しな

818:名無し三等兵
10/12/19 22:48:56
>>817
>>804>>810参照。

又、
ウィキの記述が間違っていると思う奴に訂正する義務が発生するのがウィキ

819:名無し三等兵
10/12/19 22:56:46
いつからwikiは拘束力を持つ団体になったんだ・・・

820:名無し三等兵
10/12/19 23:02:36
>>818
間違い、リチャード・コックスによるとロチェスターの街より遥かに大きく、
その内部は非常に美しく、豪壮であるとある

821:名無し三等兵
10/12/19 23:10:13
>>820
つまり、城(要塞)ではなく家(居館)として凝った造りなんですね。

822:名無し三等兵
10/12/19 23:14:07
>>821
防御機能とは櫓と塀と門を建てることだから、城としても舘としても非常に美しく豪壮であるということ
城の石垣のみに館だけあってそんな感想抱くのはバカだけ

823:名無し三等兵
10/12/19 23:30:28
今の大阪城の話だが、欧米人が観光で訪れて
「これはCastleじゃなくてFortressだね」って結構言うらしい

824:名無し三等兵
10/12/19 23:59:41
単に西洋の城が要塞としての機能を持ってなかったってだけだけどな
日本の場合陣張りの概念を最初から持ち合わせていたので、わざわざ城と要塞を分ける必要がなかった

825:名無し三等兵
10/12/20 17:53:17
>>822
防御機能とは櫓と塀と門を建てることだから、城としてではなく舘としては非常に美しく豪壮であるということ
城の石垣のみに館だけあって防御機能があるそんな感想抱くのはバカだけ



826:名無し三等兵
10/12/21 19:07:17
伏見城:城主松平定勝、5万石 兵員 1300名。
二条城:大番組1組、兵員400名
程度と推測されますが、夜間勤務は当時の慣習で全兵員の一割程度と考えられます。
10月1日夜間奇襲をかければ130程度の兵員しかおらず、伏見城は城内進入路は五箇所、
守備兵は多くとも一箇所20名程度、手間取りもしないと思います。伏見城に大番組
が常駐していたと言う記録はないと思います。


827:名無し三等兵
10/12/21 21:37:31
伏見城は1606年以後再建中止されて、
事実上廃城化されているからな。

828:名無し三等兵
10/12/22 14:57:24
>翌慶長7年(1602年)6月には藤堂高虎が普請奉行に起用され、同年末頃にはほぼ再建がなり、

>その後も作事は続けられたが、駿府城の改築の為、翌1606年(慶長11年)頃には伏見城の作事も停止され

1602年の段階で基本完成し、その後4年間増改築が続いていたと書いてあるようですが。

829:名無し三等兵
10/12/22 17:22:14
基本完成=居住空間(大名屋敷など)完成

830:名無し三等兵
10/12/22 21:22:34
>このころより大坂城に移っていた大名屋敷が伏見城に戻ってきたが、関ヶ原の戦い直後に城下町は焼き払われており、跡地に東西両軍の大名に与えられたと考えられている。
大名屋敷は城下に作られたようですが

>同年御殿建設に伴い、徳川家康も本丸から西の丸に移り、更に二条城に移るが、本丸部分が完成する同年8月20日には伏見城に帰城する。新しくなった御殿で徳川秀忠の
>将軍宣下が執り行われた。
慶長10年(1605年)のことだそうですが、明らかに居住空間後回しにしてますが

831:名無し三等兵
10/12/23 18:04:24
>>830
居住空間が先のように見えるがwその記述ではw

832:名無し三等兵
10/12/23 19:41:50
>>831
1602年、(1年ほどの突貫工事で)城がほぼ再建
1605年、(将軍宣下のために)御殿建設

833:名無し三等兵
10/12/23 22:18:38
1602年、(1年ほどの突貫工事で)城がほぼ再建
      ↓
居住空間の再建w

1605年の御殿建設は豪華にしただけw

834:名無し三等兵
10/12/24 06:31:24
て言うか、
>再建は木幡山伏見城を踏襲されているが、弾正丸、大蔵丸、得善丸、御花畑山荘と呼ばれている北西部の曲輪群と
>それを取り巻く堀は放棄された
一部除いて元の城を再現しているようですが

835:名無し三等兵
10/12/24 08:00:01
突貫工事の意味が分かっておらんようだw

836:名無し三等兵
10/12/27 00:38:22
なんだかしらんが、突貫工事という言葉は城としての機能の有無に関係ないんじゃないか?
もう何が争点なのか俺には理解できん

837:828
10/12/27 01:43:06
>>836
828
御殿の整備を後回しにしていることからも、要塞としての城の機能を回復するために突貫工事を行ったのでは、ということです。
引用はすべてウィキペディアからですが、要するにウィキペを見た限りでも、伏見城が廃城同然なんてのは嘘っぱち、ただの大名屋敷だったというのも
嘘っぱちと言って差し支えないと言いたかっただけでして。
そこに居住空間太郎さんが絡んできていただけです。

838:名無し三等兵
10/12/27 17:28:33
>>836
御殿の整備を先にしていることからも、城館としての御殿の機能を回復するために突貫工事を行ったのでは、ということです。
引用はすべてウィキペディアからですが、要するにウィキペを見た限りでも、伏見城が要塞堅城同然なんてのは嘘っぱちであり、ただの大名屋敷だったというのも
正論と言って差し支えないと言いたかっただけでして。
そこに要塞堅城太郎さんが絡んできていただけです。



839:名無し三等兵
10/12/27 18:08:26
え、なにここ

840:名無し三等兵
10/12/27 18:47:12
低脳>>828を嘲笑するスレw

841:名無し三等兵
10/12/27 23:39:59
議論の内容は興味ないがレッテル張りは無能の証明だぞ

842:名無し三等兵
10/12/28 08:43:55
廃城後に福山城等に多数の櫓や門が移築されているから、伏見城は城郭として完工している

843:名無し三等兵
10/12/28 15:18:12
多数の櫓や門が移築されているからといって、
城郭として完工していたとは言えない。
ちゃちなものだから。

844:名無し三等兵
10/12/28 15:27:10
>>843
多数の櫓や門があるのにちゃちな城なのか
では後、何が必要なんだろうな

845:名無し三等兵
10/12/28 15:57:15
>>844
じっくり腰を据えた工事。

846:名無し三等兵
10/12/28 16:09:09
>>845
建築で抽象的な物言いは何も言っていないに等しい

847:名無し三等兵
10/12/28 16:23:29
>>845ほど具体的な指摘は無い。

848:名無し三等兵
10/12/28 16:36:55
>>847
固有名詞の無い文章が具体的とは笑わせる

849:名無し三等兵
10/12/28 17:37:05
URLリンク(wpedia.mobile.goo.ne.jp)

家康自身二条城を堅固にするなと指示している、理由は敵に乗っ取られた場合落とすのにてこずるかららしい。
伏見城も同じ理屈で余り堅固にしてないと思う。

850:名無し三等兵
10/12/28 17:42:28
>>849
普通は京と伏見のどちらかを選択して守る為、二条城を簡易にして伏見城を堅固にするという
考えになると思うのだが…

851:名無し三等兵
10/12/28 17:52:42
>>850
伏見城再建のとき堅固にしたとの記録ないと思う。家康は最悪二条城落とされると考えていたようだ、伏見城の兵力も千数百のようだし、
余り強固にする気なかったように思う。西方からの敵には膳所城、彦根城での対応考えていたと思う。

852:名無し三等兵
10/12/28 18:06:05
このスレっていつもこんなにアレなの?

853:名無し三等兵
10/12/28 18:50:36
>>851
普通に伏見城は堅固ですが
後、その千数百というのは関ヶ原の話?
膳所城・彦根城は譜代大名の城、伏見城は幕府の城、立ち位置が根本的に違う

>>852
瀬田川防御策が可能だと頑なに信じているのがいるので

854:名無し三等兵
10/12/28 19:48:53
頭固てぇなぁー
瀬田川の方に打って出るのは局面を流動的にするためだろ

855:名無し三等兵
10/12/28 19:59:11
前提として京を焼き、伏見城を落とすことを前提としているが

856:名無し三等兵
10/12/28 21:00:57
>>852
>>853みたいな池沼がいるからだよ。
伏見城は簡単に既に証明されているのに認めようとしないし。
そもそも伏見城が堅固だという根拠が何一つ無い。

857:名無し三等兵
10/12/28 21:11:02
だいたい、伏見城を要害にする馬鹿はいないだろうw
二条城と同じように居館程度の防御能力で充分。
当時の感覚では、本格的に居館+要害の要素を共に持たせるならば、
総構にしている筈。
険しい山城ならばともかく、総構もないのに要害の設計する合理的根拠を持たない。

858:名無し三等兵
10/12/28 21:29:39
>>828=>>853=>>855のキチガイさに呆れ果てるw

859:名無し三等兵
10/12/29 13:36:41
まともな意見すら出せないのに延々とレッテル貼りしてるだけの馬鹿は何がしたいんだ?
はっきり言って邪魔なんだが

860:名無し三等兵
10/12/29 14:02:35
>>857
URLリンク(ja.wikipedia.org)
「主な総構えの城」の項目を参照

>>859
話の通じる相手ではないので、専ブラあぼ~んが吉かと

861:名無し三等兵
10/12/29 15:51:48
>>859
>>860みたいなキチガイだからじゃない?
>>860の自分の持ってきた史料でさえ、
むしろ伏見城は堅固でない事が伺えるのにw

862:名無し三等兵
10/12/29 16:17:00
そもそも大名屋敷などが既に廃止され取り壊されているのに、
当時も「総構」とは笑えるw

863:名無し三等兵
10/12/29 18:27:41
結局のところ、宇治川防衛策が妥当だったという証拠しか出てこないわけだ。

864:名無し三等兵
11/01/01 11:04:55
瀬田川防衛策が最強!

865:名無し三等兵
11/01/01 15:11:29
>>864
10万の豊臣軍の内7万で宇治川に陣を敷き、3万の部隊を大阪城に待機さす。こうすれば徳川軍の部隊は東西に二分され、西の部隊は
大阪城の部隊に側面を衝かれる恐れがあり、播磨より西には進軍できない、又家康の命令も西に伝わらなくなり、西の幕府軍は死兵と化す。
東の部隊は10万前後と予想される、事実将軍宣下や秀頼との会見時家康の動員した兵力は10万前後、宇治川で決戦を行えば勝敗の
帰趨は不明、ただ、夏の陣での徳川本隊や譜代衆の弱体振りを見れば豊臣軍の圧勝と考える。徳川軍本隊や譜代衆は小牧長久手以後
まともな実戦経験が無く、九州、朝鮮、関ヶ原で実戦経験豊富な浪人衆の相手では無いと思う。

866:名無し三等兵
11/01/01 21:17:22
>>865
それは幸村達が進言していたなw

867:名無し三等兵
11/01/01 21:46:09
伏見城堅城厨が必死に堅城だと妄想で語っているけど、
仮に堅城で伏見城を豊臣方が落とせなくても、
伏見城に押し込めておくだけでも充分だろうに。
その間に朝廷への工作や京の物資を接収して大阪に運んだり出来るのに。
もっとも、郡山城のように伏見城は豊臣方に落とされるだろうけどね。


>>865
宇治川で対陣している間に、
各地の既存の寺院などを利用して、
大坂全土を陣地構築させておく時間稼ぎにもなるからね。
真田信繁の「その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う」
という発言にあるように本来の目的は、
徳川方に出血を強いる遅滞戦略が狙いだからな。

868:名無し三等兵
11/01/01 21:49:54
>>867
最終的に篭城戦になるにしても緒戦における縦深の確保は必須だからね

869:名無し三等兵
11/01/02 01:22:30
 互いの意志疎通すら怪しい豊臣方が、C4I揃えた現在の軍事革命なみに効率良く戦力を運用出来る訳ない。
それが可能という前提であれば、あれこれ考えてみるのは楽しいし、実際に勝てる可能性も高かっただろうが。

870:名無し三等兵
11/01/02 01:45:08
関が原の頃なら、簡単に徳川を叩き潰せたのになぁ

871:名無し三等兵
11/01/02 09:28:05
夏の陣をみてると、少なくとも徳川軍より豊臣軍の方が効率良く戦力を運用出来ている。
まあ熟練した武将ぞろいだから。

872:名無し三等兵
11/01/02 09:33:36
天王寺の戦いはバンザイ突撃としか言えない

873:名無し三等兵
11/01/03 22:23:43
バンザイ突撃にしては、
非常に規律だって組織的な攻撃だな。

874:名無し三等兵
11/01/03 22:49:18
いや、単に相手が崩れたので、そのまま突撃
勢いに任せて突き進んで、徳川方が味方の壊乱に引きずられるのに乗じて
突っ込んだだけなんだが

因みに、幕府の直轄戦力である大番の中で戦死者を出したのは
例外として前田と井伊の間にいた高木正次組だけだったりする
これを見ても天王寺・岡山の豊臣方の「突撃」がどの程度か類推できるというもの

875:名無し三等兵
11/01/04 00:45:52
> いや、単に相手が崩れたので、そのまま突撃
> 勢いに任せて突き進んで、徳川方が味方の壊乱に引きずられるのに乗じて
> 突っ込んだだけなんだが

相手の陣が崩れたら体制を立て直すまで
待っとけとでも言うのかよ

876:名無し三等兵
11/01/04 01:11:19
あの福島正則でさえ、宇喜田如きの軍を突撃で崩せなかった

877:名無し三等兵
11/01/04 05:42:37
>>875
悪手とは言わないけど、長期戦に持ち込んだほうが良いんじゃないの
当時の幕府・藩財政は逼迫していたから

878:名無し三等兵
11/01/04 19:01:14
>>877
それが成立するのは冬の陣の話でのこと。
そもそも「幕府の直轄戦力である大番の中」という
非常に狭い限定を置いて逃げて、
豊臣方の突撃を否定する論拠のがどの程度か類推できるというもの 。
徳川方の諸部隊は軒並み甚大な被害を出している時点で、
豊臣方の「突撃」がどの程度か類推できるというもの

879:名無し三等兵
11/01/04 19:51:47
>>878
野戦築城でも防戦に徹すれば良い所まで行くと思うが
本多忠朝の徳川先手が崩れたのはそこら辺にあるだろうし

後、大番は旗本先手を担う連中だよ
こいつらが討死していないなら、先ず豊臣方はそこまで来ていないね

880:名無し三等兵
11/01/04 21:55:15
>>879

勝 ち 戦 が 分 か っ て い る の に 討 ち 死 に し た い 馬 鹿 が ど こ い る ! w

881:名無し三等兵
11/01/04 22:00:00
>>880
突撃バカはたくさんいたよ
何しろこれが終わったら、次なんてあるとは思っていなかったから

882:名無し三等兵
11/01/04 22:14:10
なら、突撃バカじゃなく、冷静で的確な突撃だなw

883:名無し三等兵
11/01/04 22:23:38
>>882
いや、881は豊臣方でなく徳川方の事を言っているんだが

884:名無し三等兵
11/01/05 07:30:10
>>883
?。だから、冷静で的確な突撃なんだろ

885:名無し三等兵
11/01/05 10:53:44
>>884
??
後先考えず、孤立し殲滅されることを承知の上での突撃が
「冷静で的確な突撃」とは私は思えんな

886:名無し三等兵
11/01/05 11:34:20
突撃したからといって、
「孤立し殲滅される」とは限らない。

887:名無し三等兵
11/01/05 12:11:38
>>886
後続・後詰がいない突撃は孤立し殲滅される
しかも天王寺のは現場の判断によるとっさの判断
これに後詰が即座に反応するというのはご都合主義極まれり

888:名無し三等兵
11/01/05 12:46:07
結局のところ、宇治川防衛策が妥当だったという証拠しか出てこないわけだ。

889:名無し三等兵
11/01/05 14:50:39
>>887
戦場は予想通りには動かない、状況に応じて即座に判断できる指揮官が古来名将と称される。
後詰の指揮官に将才がなかっただけだろう。

890:名無し三等兵
11/01/05 16:36:19
>>889
無線がある時代でも難しいのに、伝令のみの当時では先ず無理
何しろ、開戦から総崩れまで僅か3時間、しかも酷い混戦なんだし

891:名無し三等兵
11/01/05 16:43:16
後詰が即座に反応するのは、
古今東西の戦の前提なのだが。

892:名無し三等兵
11/01/05 16:57:18
前提というより理想
そして理想は大抵、失敗する

893:名無し三等兵
11/01/19 17:14:46 k2rRXsqg
>>887 >>889-892
戦慣れした明石全登に兵3千ほど付けて、」後詰に配置しておけば、適切な時期に
突撃し家康の首はねられたのにと思う。


894:名無し三等兵
11/01/19 17:19:15
>>893
その「適切な時期」を見極めるなんて不可能と断言しても良い

895:名無し三等兵
11/01/19 22:04:12
そこは総指揮を下すはずの秀頼が歳が一つ違いのグスタフ・アドルフぐらいの指揮能力があれば…

896:名無し三等兵
11/01/19 22:19:34
>>805
グスタフは前線指揮だったし(それが故に死んだけど)、密集陣形が基本の西洋とは
指揮統制のレベルが全く異なる


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