11/02/09 23:48:47 +5/kWcjG0
昨日見たのだが、第5話をもう一度見直した。ますます面白い。
この脚本家は相当緻密ですな。
絵里子は「信じている」人じゃなくて「信じたい」人。
何を?「何か」を。
その「何か」というのは、旦那でも世間でも隣人でも、
本当は何でもいいんだけど、
とにかく「揺るぎなき何か」を「信じたい」。
「信じている」のではなく、あくまで「信じたい」。
このメンタルに宙ぶらりん状態は、一体どこから生ずるのか。
それは、彼女の「自信のなさ」から生み出される。
自分に自信がなく、何かに自分を仮託したいというメンタリティから生まれる。
もしも彼女が自分に自信がなかったとしても、
「信じたい」のではなくて、何かを固く「信じて」いれば、
こういうことは生じない。
たとえそれがインチキ宗教であっても、
少なくともその「導き」において、彼女は満たされる。
しかし彼女はそういうものに縋ったり嵌ったりするような「弱きもの」とも違う。
彼女は表向きは満たされている。だからそういう「邪道」に走ることもない。
しかしその表向きの充足がどこから供給されているのかというと、
「彼女自身の与り知らぬところから」なのである。
これこそが、彼女を「実は弱きもの」にしている根本的な原因である。
彼女は「自分の与り知らぬところ」によって満たされている。
もちろんそれは彼女が自力で勝ち取ったものとは違って、
「何故か」「たまたま」自分の手元にあるように見える。
だから彼女は、自分の現実を客観視することが出来ないし、
自身が囚われている「満たされた」主観世界を、
揺るぎなきものだと、あくまで「信じたい」というレベルに止まる。
決して「信じる」のではなしに。
この儚さ、脆弱さは、現代の多くの、特別に善良というほどでもない、
かと言って悪者ではない、ごく一般的な普通の人々が、共通して抱えているものだ。