03/08/06 23:02:32 VjT.lZsg
今日は広島原爆投下の日、
俺は学生のとき、長崎に行ったことがあるが、
恐ろしい、と思ったのは、
あのセラミックの瓦が何枚も溶けて1つになっていたことだ。
被爆者たちの写真と同じくらいに衝撃的だった。
原子力の平和利用、というが、
時の権力者たちは
威力のあるものに惹かれ、それによって多くの犠牲者
(特に、女、子供、老人)をうんできた
愚かしいと幾度も反省をし、
しかし、同じことを幾度も繰り返してきた。
そんな思いを込めた広島市長の言葉に
時の首相は
見解の相違、と一蹴する。
見解に相違があるのなら、
なぜ、時間無制限で
突き詰めた議論をしないのか、といいたい。
中途半端な意見を国是とすれば、
必ず、その報いを受ける。
その報いを負の遺産として後世に残すことを
なぜ学校では教えないのだろうか。
なぜ、マスコミはキャンペーンを張らないのだろうか、
なぜ、なぜ、という言葉をどのくらい発すると
今日一日の重みを理解してもらえるのだろうか、
と、ニュースを見ていて思ったのだが、
喉もと過ぎると冷たさも忘れて、夏。