08/08/16 16:49:02 vMYmToRf0
>>750 >>754
もともとは崖下の低地にあったが多摩川の度重なる出水に、何度も嘆願書を提出し現在地(崖の上だが崖っぷち)に移転を許可された。
当時多摩川上流のBも一緒に嘆願書を提出したのをきっかけに上流(現A島市)にあったBを上組、Y保を下組とする呼称ができた。
現在も白山の小さな祠があるところがY保Bの旧地である。
Y保の場合、東端は西府村(現F中市)との村境、南は甲州街道で一般村落と区分され北側は崖であった。
そして1960年代のK立インターの完成によりK立市のはずれにいよいよ封じ込まれるかたちになった。
戦後、Bのなかでも特に貧しいもの達は獅子舞や囃子を副業としていた。
その流れをくむ人々が現在のK立市民祭りでも敢然と「白山様」を祭った山車を組んでくりだすのである。