08/02/17 03:14:43
加藤のその話っていうか
オカルトの世界でいわゆる「デニケンもの」といわれるその種の話はね、
民俗学とか神話学のほうから見るとある意味あたりまえっつうか
反省されてる部分でもあるんだよ。
たとえばこれはUMAとかの研究でよくあることだけど、
たとえばアフリカの奥地で謎の生物が目撃されているようだ、
という情報があってそこに西洋人が調査にいくとする。
それが「それは恐竜に違いない」と思い込んでいる人たちだったりすると、
彼らは現地の人たちに「恐竜図鑑」を見せちゃうわけ。
で、この中に似たものがいないか?という尋ね方をする。
すると現地の人はその中からまあまあ似ているのを示してしまう。
それで「前知識のない現地民が~サウルスを選んだ」などと発表するんだな。
だけど別の懐疑的なグループが調査に行って「動物図鑑」を見せると
現地の人が選ぶのは普通にサイだったりゾウだったりするわけ。
同じように、キリスト教的な文化習慣を持つ人たちが世界中に散らばって各地の神話や民話を収拾すると
ただの「太陽の神様」を「唯一の神」に置き換えちゃったり、
地域ごとの独自性を単一化しちゃったりということが起こる。
洪水の神話に接した時、ストーリーが随分違っていてもノアの話に結び付けて解釈してしまうことがあるわけ。
後は誤訳や誤解による曲解もよくある。
それはキリスト教内部でも起こっていて、有名な例としては「ミルメコレオ」という怪物の話がある。
だから「似た話」を集めるという方向性ではなくてそれらの話の「違い」に目を向けないと
神話とか文化の本質は見えてこない。違いを見ようとしても見えない場合だけ、「似ている」と言うべきなんだよ。