08/06/26 14:15:19 3CIsyoxg
中島は「パール護憲論者」を売り物にして、新聞記事だけでなく「平和の宣言」の文章があるということに注意書きすらせず、
批判されてから初めてその存在が明らかになった(この時点で駄目。確証もない話が事実のように流布された。)、
完全な捏造「繰り返し訴えた」に関してはダンマリ。
んで「平和の宣言」の存在がバレると田中氏の主観の問題に持ち込み、
改竄の可能性があるから「新聞記者」の方が正しいと考えた、
などと散々確証のない話が事実として流布された後に、今更いけしゃあしゃあと何事もなかったかのように言い出す。
完全な捏造についてはダンマリ。
それに対して小林が反論して、またもやダンマリを決め込む。
結局、中島は自分の最初の行いが学者として明らかに間違っていたこと、それが世間に対して与えた影響の重大さを潔く認めればよい、
それさえすれば可能性について論じてもよい。
未だに自分が最初から正しかったかのように見せ掛けて「こういう可能性も捨てきれないと思います」などとホザクならコイツには論じる価値はない。
可能性の問題については、小林はあんたが言っているような「善意から書き換えた可能性」なんざ多分念頭に入れていないだろうし、
あんたのその可能性を完全論破出来るとなら批判するだろうが、絶対的な一次資料が出てきていない以上、うん、そうだね、って言うだけの話。
小林の論は中島の悪意をモロに受けているのだからあんたのように「善意から平和主義を平和憲法に書き換えた可能性」なんざ考えたこともなかったのだろう。
一応言っておくが、俺は最初から可能性は否定していない。