07/08/28 23:32:36 S8rjFSa00
戦前の話ですが、現在のSGNM区法難①、光州街道と水道道路に挟まれた地域には石工達がたくさん住んでいたんですね。
水道道路は当時はまだ上水路で、2階建ての家屋の2階部分が、現在の缶7と同じぐらいの位置になるというかなりの低地だったようです。
上水路を道路にするときに脇の地域も多少埋め立てたんでしょうか。
現在も低地ではありますが、そこまでひどくないですね。
それにしてもd田橋のバラック通りはなぜ道路にならなかったんでしょうか。
あそこも元は上水路で、道路にする計画だったはずですが・・・。
結局道路にならずに住宅地になるという、おかしな現象ですね。
SGNM区に保護されていたのか。