06/07/20 21:04:08 kI+7cshP
★★★★★貼り付けられたメモは、徳川侍従長の言葉?★★★★★
メモ自体は富田氏が書いたと思われる。
「私は或(あ)る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取までもが」
「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」
「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。(中略)親の心子知らずと思っている」
…これがメモの文章である。
このメモだけでは「私」が誰なのかは全く分からない。
そして、富田氏が宮内庁長官だった時代の侍従長、徳川義寛氏がメモと同様の主張をしているのだ。
>徳川氏は「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただした。
URLリンク(www.tv-asahi.co.jp)
>昭和天皇の侍従長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戦犯合祀について、「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語っている
※朝日新聞1995年8月19日 「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」
「松岡、筑波、慎重、松永」…メモの内容と驚くほど、整合している。
そして、徳川侍従長が勇退したのは1988年4月末日…。
つまり「富田メモ」の日付1988年4月28日と完璧に一致する!
…勇退する徳川侍従長が富田宮内庁長官に、自分の思いを語った…という推測はごく自然である。
つまり、「私」が「徳川侍従長」である可能性は充分にあるのだ。
しかし…。
このメモを「天皇との会話を記した手帳」に貼り付けると…アラ不思議!
「私」は「天皇」になってしまうのである。
少なくとも、「後から貼り付けられたメモ」で、それが「天皇の言葉」である事を証明するのは不可能である。
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