03/10/19 00:53 vkQma9vq
この1年、私はいつもの東京ではなく京都で暮らした。
そしてアメリカ帰国後のショックから多くを学ぶことになった。
日米双方についてのステレオタイプがこれほど強く働くとは思っていなかった。
ボストンの空港に着いた私は、厚かましく騒々しいアメリカ人に恐れをなした。
誰もが太りすぎで威圧的にみえた。
みんなあきれるほどよく食べ、その巨体で場所をふさぐ。
私は自分勝手なガイジンたちに怒り、当惑し、距離をおこうとした。
炭酸飲料の缶は大きすぎるし、レストランの料理は大盛りだ。
アメリカ人はしゃべりすぎで、無遠慮で、耳障りなほど個性を主張する。
アメリカは、自分にしか関心がない偏狭な大国だ。
排他的で視野の狭い巨大な「島国」だ。
このようにアメリカに不満をいだくあまり、
日本に溶け込むにも適応が必要だったことを忘れていた。
日本では人と知り合うには複雑な手続きが必要だがアメリカでははるかに簡単だ。
帰国した私を、友人たちは両手を大きく広げて迎えてくれた。
彼らの気さくな歓迎ぶりや、カフェで見知らぬ他人とおしゃべりできる自由を満喫し、
アメリカに帰ってよかったとしみじみ思った。
でも考えてみれば、京都にもそれはあった。
大家さんはミカンを持っておしゃべりに来たし、友達がふらっと遊びに来ることもあった。
私はただ単純に、アメリカの「自由」を日本の「窮屈さ」と対比させていただけだった。
ゆがんだ見方をしていた自分に気づき、私は学生たちに言った。
帰国後1カ月もすれば、日本もアメリカも普通の国にみえてくる、と。
厄介な移行期にはステレオタイプにとらわれた見方をしてしまう。
そう気づいたことで、よく食べる騒々しいアメリカ人にも、日本かぶれのガイジンにも、もっと寛大になれればと思う。
私自身、どちらでもあるのだから。
(メリー・ホワイト(ボストン大学人類学教授)