03/08/30 00:01 tfxRlOOx
>>121
前スレでちょこっと書いたんだけど一応全文載せとく。
週刊100人「アルバート・アインシュタイン」
1948年、アインシュタインはプリンストン高等研究所に滞在していた湯川の部屋を訪れると、
日本に原爆が投下されたことについて「すまなかった」と謝罪した。
アインシュタインはドイツが原子爆弾を発明することを危惧し、ルーズベルトに宛てた
「核爆弾の進言書」にサインしたのだが、皮肉にも原爆の悲劇はアメリカによってもたらされたのだった。
彼はその責任の一反であることで自分を責め、湯川に謝ったのである。
彼らは原爆という悲劇を通じて親交を深め、科学がもう二度と戦争に使われないように議論し合った。
湯川は1935年に「素粒子の相互作用について」という論文を発表、中間子の存在を予見していた。
その後欧米で中間子の存在が確認され、1949年に日本人としてはじめてのノーベル賞となるノーベル物理学賞を受賞した。
第二次世界大戦以降、世界は原水爆開発のために躍起となり、次々と実験が行われた。
これに危機を抱いたアインシュタインは1955年、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルとともに
ラッセル=アインシュタイン宣言を発表。世界中の科学者に核廃絶を訴えた。そして湯川も彼らの共同署名者として参加した。
湯川はアインシュタインの死後もその意志を継いだ形で、核廃絶のために力を注ぎ続けた。
日本滞在時の話もちょっと載ってる。これはまたあとで。