05/02/11 12:24:51 R0rEVL5X
さて、その後>>594はどうしたのか。
「もう俺はだめだなぁ。田舎に帰って家業の乾物屋でも継ぐか」
と思ったのか。
平成17年2月11日、>>594の自宅にて、近藤本の大捜索が行われた。
乱雑に積み上げられた文庫本を並べに並べ、中身を読みに読む。
そして捜索が始まってから実に418冊目、めくったページにして
106898ページ目を開いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
>>594ほどの男が、その箇所を見て声も出ない。
「プロ野球 優勝その陰のドラマ」(新潮文庫)の146ページの内容は
こうである。
「……高代はもう今季はだめだと思った。だが先発メンバーが発表されて
みると前につんのめった。八番にちゃーんと自分の名前が出ている。
『おれは骨がジャリになっても打つ』
と高代はふるえながら思った。……」
>>594がここを目にした時点で、この文庫本は第三刷。つまり最低2回は
編集担当者の目を通っている。現代のサムライとも呼ばれる編集者が
2回も目を通しているのだから、これはもう確信的に修正していないと
言っていい。「近藤節」が新潮ジャーナリズムを超えた瞬間である。
ここで私は思うのである。『ジャリ』ではなく『舎利』だと、正論を吐き続けて
周りから人がどんどん離れていく生き方と、「男の心意気をより鮮明に
伝えるには『舎利』より『ジャリ』のほうが語感がよい」という英断をすることで
未来永劫、ファンから愛され続ける生き方とでは、どちらが男の道と言えるのか。
頭ごなしに否定せず、近藤節でやんわり返し続ける近藤スレの住人の
温かい心に触れ、>>594は胸の奥底でこう叫んだのではないか。
「俺は骨がジャリになってもこのスレを愛し続ける―」