09/07/22 17:11:42
1964年7月31日、韓国国会がベトナム派兵動議を可決した後、政府が派遣した軍事使節団は戦闘
部隊よりも医療・通信部隊のような間接支援が望ましいとの報告書を出した。気候や地形に適応が
難しく、フランスと10年間のゲリラ戦を戦ったベトコンの戦力は無視できないというのが理由だった。韓国
戦争(朝鮮戦争)では「白骨部隊」を率い、ゲリラ戦経験があった陸軍本部の蔡命新(チェ・ミョンシン)
作戦参謀部長も「ベトコンと戦って勝てる外国軍隊は地球上にはないと思った」と話した。
65年10月、戦況が緊迫し、戦闘部隊の「青竜部隊」を率いて参戦した蔡命新氏は、住民の間に潜ん
でいるベトコンの特性を考え、新しい戦術を取った。中隊単位で重要拠点を占領し、住民とゲリラのライン
を断ち、基地を造営した上で防衛に当たった。66年6月にドゥクコの戦闘で大勝すると、米軍も同様の戦術
を使った。67年4月のニューズウィークは「ある日教師の米軍は、非凡な学生である韓国軍が自分たちより
先に立っている事実に気づいた」と書いた。
西側11カ国の金融クラブは「ベトナムでの行動を見る限り、韓国の将来は明るい」として、韓国に対する
32億ドルの支援を提案した。ベトナム戦争は貧困から脱出した戦いでもあった。63年の輸出額は4500万
ドルだったが、74年には対米輸出だけで10億ドルを超えた。1人当たり国民所得は64年の200ドルから75年
の2000ドルへと10倍に増えた。参戦した将兵は国産テレビを1台ずつ買って戻った。50-60ドルの月給や
休暇費をかき集め、田野を買った者も多かった。
ベトナムに派兵された32万人のうち、12万人は戦争の後遺症に苦しんでいる。米軍が密林に飛行機で
猛毒のダイオキシンを含む枯葉剤をまいたとき、全身に浴びた将兵たちだ。これまでに約3万2000人が枯葉
剤の後遺症患者に認定され、国家有功者としての礼遇を受けているが、症状が軽い8万7000人は後遺
症の疑い患者に分類され、十分な支援を受けられずにいる。病気はその子供にも及び、64人が枯葉剤
患者として登録されている。
枯葉剤患者の団体である「枯葉剤戦友会」のソウル支部が先週末、ソウル市銅雀区の戦没者慰霊
施設、国立顕忠院の前にある緑地公園に高さ15メートルの「参戦45周年記念塔」を建てた。体が
不自由な彼らは誰も建てようとはしなかった記念塔を建てたのだ。ベトナム戦争の傭兵(ようへい)問題が
取り上げられるたびに蔡命新氏は「6.25戦争(朝鮮戦争)を忘れることは自由を放棄することであり、
ベトナム戦争を忘れることは大韓民国を放棄することだ」と語った。ベトナム戦争に対する正当な再評価を
通じ、その時代に散った若者の犠牲を称えるべき時が来ている。
URLリンク(www.chosunonline.com)
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