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殺害・報復 日台『牡丹社事件』135年 惨劇の戦場 交流の場に
牡丹社事件の記念式典であいさつする牡丹郷の林傑西郷長=屏東県で
URLリンク(www.tokyo-np.co.jp)
台湾南部に漂着した宮古島住民が先住民族に殺害され、その「報復」として1874年に
日本が台湾に攻め込んだ牡丹社事件。135年たった今、事件の地が「愛と平和」の記念公園
として整備される構想が浮上した。悲惨な歴史を超え、日台が交流を深めるまでの道のりを
たどった。(台湾南部屏東県で、栗田秀之、写真も)
台湾最南端の山間部に位置する屏東県牡丹郷。宮古島の年貢運搬船が那覇からの帰路、
台風に遭って台湾南部の東海岸に漂着し、乗っていた島の役人ら六十六人が迷い込んだのが
牡丹郷だった。このうち五十四人が先住民族のパイワン族に殺され、残る十二人は逃げ延びた。
惨劇に至った背景について、日本の出兵で犠牲になったパイワン族の遺族代表、
華阿財さん(71)は「言語や風習、文化の違いで互いに誤解があった」と話す。
華さんの説明を基に、宮古島住民と先住民族との突然の遭遇を再現すると-。
郷にたどり着いた住民たちは疲れ果てていた。先住民族は水や煮芋を与えた。
翌朝、先住民族の男たちが武器を持って集まった。「狩りに行くから待っていろ」。
ところが言葉は通じない。住民たちは恐れをなして逃げた。
先住民族は逃げた者を敵とみなして斬首(ざんしゅ)した。
事件の調査を通じて地元との交流を続ける又吉盛清沖縄大教授(67)によると、
明治政府は「琉球人の敵討ち」を名目に台湾に出兵したが、当時は薩摩藩と清朝に両属していた
琉球に対する領有権の主張が根底にあったという。日本軍との戦いで先住民族側も頭目父子ら
多くが死亡し、華さんは「琉球人も先住民族もどちらも犠牲者」と当時をしのぶ。
その後、殺害された五十四人の墓が現地に建立されたが、戦後の国民党独裁政権下では
事件の再検証などの動きは途絶えていた。日本が出兵、上陸した五月の時期に、
双方が血を流した郷内の石門古戦場で記念行事を毎年開くようになったのは二〇〇二年からだ。
牡丹郷の林傑西郷長(61)は「故郷を守った先祖に感謝するとともに、史実を究明した上で
日本と和解し、交流を進めるのが私たちの役割」と話し、〇四年に日台合同の学術会議を開催
〇五年にはパイワン族の遺族らと共に沖縄を訪れ、墓参りや遺族同士の面談にこぎつけた。
双方が行き交ううちに「最初は怒りをぶつける人もいたが、次第に理解が深まってきた」。
そして今年。五月二十九日の記念式典で林郷長は、古戦場に一億二千万台湾元
(約三億五千万円)を投じ、五年以内をめどに事件を伝承する記念公園を整備する計画を披露。
日本側を代表した又吉教授は「戦場が平和と愛の場所になった。皆さんの心は日、台、中、
すべてに伝わる」と声を張り上げた。
<牡丹社事件> 1871年、台湾南部に漂着した宮古島の住民54人が先住民族に殺害された。
その「報復」として3年後の74年5月、西郷従道率いる軍団が台湾に上陸、
明治政府初の海外出兵となった。事件をめぐる交渉過程で清朝は「台湾は統治の及ばない土地」
との見解を示し、賠償金を得た日本は撤兵。以後、清朝が台湾の重要性を認識して台湾の
積極統治に乗り出すなど、事件は日本、台湾、中国の近代史において重要な分岐点となった。
東京新聞 2009年6月28日 朝刊
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