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邪馬台国はどこにあったのか‐畿内説と北九州説を中心に幾つかの推論があり、決着はついていない。
ことほどさように古代史はミステリアスであり、重点を置く資料や切り口によって異なった推論が成り立つ。
「四世紀前半、南朝鮮の加羅から北部九州に渡来した加羅系渡来集団は、邪馬台国を滅ぼし、
北部九州に前進基地をつくりました。彼ら渡来集団は瀬戸内海を東進して……」。このような記述から、
著者の立場ははっきりしているが、それはともかく、仁徳陵と次に大きい応神陵の被葬者がともに百済・
蓋鹵王(即位455~没475年)の弟であり、前者が余紀、後者が昆支だと特定し、
倭王武=ヤマトタケル=八幡神=大国主命=スサノヲがすべて昆支と同一人物だと主張する。
日本最大級の古墳になぜ百済から渡来した二人の王子が埋葬されているのか、をキーワードに、
江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」を継承しつつ、「その説を乗り越えた」在野の古代史研究者の
石渡信一郎氏の説を受けて、韓半島南端の加羅と、百済から渡来した新旧二つの集団による古代
日本国家建国の史実に迫ろうとしたものだ。
古代史の大事件が百済系と新羅系(加羅を含む)の相克であったと解釈する人が少なくない。これを
補強する緻密な研究と言っていいだろう。
(林順治著、河出書房新社、1800円+税)
(2009.6.17 民団新聞)
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