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■日帝、行楽概念さえも変えた
~ 黄ギウォン教授:「総督府の旅行制限で、特定の場所に人々が殺到するようになった」
行楽という単語からは、「行楽シーズン」「行楽客」「行楽施設」のような単語と、ごった返す人
の波、無秩序な場面が連想される。しかし我々の先祖が楽しんだ伝統的な行楽は、こんな姿
とは程遠かった。
ソウル大学環境大学院の黄ギウォン教授は最近刊行した研究書『韓国行楽文化の変遷過程』
(ソウル大学校出版文化院)の中で、「朝鮮王朝時代、人々の行楽は自然を通じた省察の過程
であり、自らの修練の延長だった」と述べた。それが、日帝強占期に行われた旅行統制のため、
限定されたいくつかの空間に人々が殺到するようになり、団体観光へ誘導した日帝の政策で
行楽の行動が変わったというのだ。
行楽概念の変化は行楽場所の変遷の歴史を通じて容易に確認できる。朝鮮王朝時代、ソウル
の人々は漢城府の城外にある北岳山・仁王山・洛山・南山の内四山一帯で主に行楽を楽しんだ。
黄教授は、「自然に接することのできる場所であったし、風流空間を王道である城内に残すこと
ができなかったからだ」と説明した。
黄教授は、このうちで三清洞、仁王洞・玉流洞、洛山・双渓洞、白雲洞、南山・青鶴洞を五大
名勝地に挙げた。渓谷と松林が心地よい三清洞は都の人々の夏季リゾートであり、仁王山の
仁王洞・玉流洞は花見と弓術の場所だった。紫霞門の白雲洞には文人たちが集まって風流を
楽しんだ。五大名勝地のほかにも北漢山近くの牛耳洞渓谷には寺院が多く、女性たちの行楽
活動が特に活発だった場所だ。
行楽文化は李朝末期と日帝強占期に変わり始めた。黄教授は最大の特徴として、公園文化の
登場を挙げた。都城の外の岸辺や森に代わって、都城内の公園が行楽場所として多く利用され
るようになったのだ。
当時の新聞報道には、「昨日午後3時に、法務大臣の高ヨンヒ氏が中部寺洞公園内で園遊会
を催し、副官以上と大審院判検事以下、法官養成所長ら約60人を招待して盛会だった」(大韓
毎日新報 1908年9月22日)といった記事が目立つ。
黄教授は、「公園は公式行事の場所として使われ、日帝強占期には市民たちの花見や避暑に
活用された。日帝は昌慶宮や秘苑などを格下げして公園に変え、こうした雰囲気を助長した」と
と述べた。1920年代に至ると、こうした集団的行楽はピークに達した。1924年には春の花見に
昌慶苑に繰り出した利用者が4月の一週間だけで約15万人にのぼった。当時の京城の人口は
36万人だった。
ふっかけ料金などの副作用もこの時から始まった。黄教授は、「行楽地の秩序維持が警察の
主な仕事であり、当時既に行楽地の物価取り締まりがあった」と紹介した。
黄教授は、「自然と一つになって自らを省察する真の意味での行楽活動は衰えた。意味もなく
人ごみの中に繰り出す行楽客や、心身の休息を取るのではなく疲れるばかりの団体観光など、
日帝によって歪曲された姿は、いまだに相当部分残っている」と指摘した。
▽ソース:東亜日報(韓国語)(2009-05-28 02:59)
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