【韓国】文明と日本侵略の道具、鉄道の双面 [05/20]at NEWS4PLUS
【韓国】文明と日本侵略の道具、鉄道の双面 [05/20] - 暇つぶし2ch1:はらぺこφ ★
09/05/20 16:33:57
1876年、修信使の金綺秀(キム・キス)は列車に乗って「たばこ1本を吸う、あっと
いう間に」横浜から東京に着いた。

鉄道が日本に敷設されてから4年後のことだった。「先頭の汽船が動くと、後ろの車両の輪も
ともに動き出す。雷のような音を出し、稲妻のごとく走るから、風雨にさらされたような
感じだ。1時間に300里(1里=約4キロメートル)も走るというが、車体はを安穏で
ちっとも揺れない。山河と草木、家と人が見えるものの、現れた途端消えていくから目まい
がした」。

しかし、同氏は驚き感心するだけで、朝鮮(チョソン、1392-1910)にも鉄道を
敷く欲望を抱くことができなかった。1881年になって、ようやく朝鮮王朝は文明開化の
模範答案を日本から見いだそうとした。西欧化した近代文物のあれこれを、日本全国津々
浦々を歩き渡って見学した「朝士視察団」。

それらは大阪と神戸、横浜と東京を、それぞれ結ぶ鉄道で東京へ向かった。当時、それらは
鉄道の敷設費用が国家の財政にどんな影響を及ぼすかをめぐり、論戦を交わした。「毎年の
収入は約80万ウォンだが、鉄路の補修費用が毎年50万ウォンを上回る。収入から費用を
引けば、わずか約30万ウォンが残る。この収益金で架設費用の全額を返済するには、30年
以上もかかる。ましては架設費の全額が国債だ。毎年の収益金は利子を返済できるほどに
すぎず、元金をいつ全部返済できるものかわからない」。

維持費や補修費を除いた運営収益では国債の利子も支払いにくい、という懸念が大方の見方
だった。朝鮮には、空間を短縮し疾走する近代文明の象徴、鉄道を自力で敷く技術も、財力も
なかった。長い歳月が流れた後の1899年になって、ようやくこの地の人々は轟音(ごう
おん)をあげて疾走する列車を見ることができた。

しかし、鷺梁津(ノリャンジン)から済物浦(チェムルポ)までの33.2キロメートルを
1時間40分で走った米国製のモーガルタンク型の蒸気機関車を覆いかぶせた日の丸の旗が
雄弁するように、京仁(キョンイン、ソウル-仁川区間)線の鉄道は自力ではなく、日本の
手で敷かれた。

首都ソウルと関門の仁川(インチョン)を結ぶこの鉄路で、日本はわれわれの襟首をつかんだ。
文人の崔南善(チェ・ナムソン、1890-1957)は1908年に唱歌「京釜(キョンブ、
ソウル-釜山区間)鉄道歌」を作り、近代文明の象徴の鉄道を賛美した。

「力強く響き渡る汽笛の音/南大門(ナムデムン)を背中に出発し/高速で吹きこむ風のご
とく/翼のある鳥も追いつけぬ」--。

京釜線と京義線、湖南(ホナム、大田-木浦区間)線と京元(キョンウォン、ソウル-元山
区間)線など日本による植民支配時代に設けられた鉄路は1910年、総延長2197キロ
メートルにのぼったが、8割は国内での物資と人の行き来ではなく、大陸と日本を結ぶ兵站
(へいたん)や商品の輸送を目的に敷かれた。このため、植民地民の目に映った鉄道は
「近代文明の利己であり、侵略の刃」という双面のヤヌスに迫った。


中央日報 2009/05/20 15:42
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