09/05/18 20:27:01
姉や兄は妹のリーンが嫌いだった。リーンの目は小く頭は黒かった。米国ミシガン州デトロイト近郊の
小さな村でリーンは唯一の東洋人だった。三人の姉や兄らはリーンをつま弾きにし、養父母はリーン
を虐待した。1966年12月、二歳のリーンが初めて養父母の胸に抱かれた時には事情は少し違った。
養父母は自ら希望してリーンを養子にした。貧しい国から来た赤ん坊を可愛想に思う心があったはずだ。
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▲「私たちはここにいます。」1966年8月米国オレゴン州で開かれた韓国入養家族大会。1955~66年
に入養された子供達がグループごとに記念撮影をしている。<ホールト児童福祉回50年史>
しかし義母はますますリーンに冷たく接した。後日、義母は自殺を試みる。気が弱い彼女はリーンに
贈る愛情の余力がなかった。若い父親はリーンに触った。13歳になるまでリーンに淫らな行為をした。
幼い時は何のことか分からなかったが、年を取ってからは分かっても黙っていた。また捨てられるかも
しれなかったからだ。周辺には若い父親に似た白人たちだけだった。18歳で家を出た。10代で結婚し
たが、5年後に離婚した。彼女は不幸なのか?まだ断定はできない。
「孤独の連続だった」と回想するリーン・リース(Leanne Leith・44) の人生にも希望が一つ残っている。
生みの親に会うことだ。1年前から彼女はホールト・インターナショナル(以下ホールト)に自分の記録
を要請した。アメリカのホールトは「韓国から受けた資料がない」と言い、韓国のホールト児童福祉会は
「アメリカに資料をすべて送った」と言った。今年2月、彼女は42年ぶりに韓国に帰って来た。
結局、入養機関で受けたものは書類一枚と写真一枚だけだった。
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▲‘#4708’がリーン・リースに生まれ変わった1966年の写真。リーンはこの写真が取られる前の2年
間の生活を捜そうと韓国へ来た。
自分の未来が分からない二歳の子供が写真の中にいる。#4708という番号が書かれている。1966年
3月、江原原州市市役所の前に捨てられた子供に付けられたシリアル番号だ。この写真を通じて生み
の親を探したが、韓国へ来て三カ月経っても進展はない。彼女の不幸はまだ終わっていない。リーン
は毎年1千人以上外国に送られる韓国人海外養子の子供達の未来だ。彼らすべてが不幸な人生と
いうわけではないだろう。しかし、一生悲しみと曲折を担わなければならない。元々は大人たちの過ち
だった。はじめから最後まで国の過ちだ。
21世紀に入った2000~2007年だけで1万6970人の韓国の子供が海外入養家庭に送られた。朝鮮
戦争以後発生した数多い‘戦争孤児’のために1961年初めて孤児入養特例法が作られた。半世紀が
たった今、もはや戦争孤児はいない。それでも海外養子は相変らずだ。去年、海外養子にされた韓国
人の子供は合計1250人だ。保健福祉家族部の資料を見れば、1958年以後2008年まで韓国から海
外に養子に送られた子供は合計16万1558人だ。このなかで67%にあたる10万8222人がアメリカに
送られた。その次はフランス(1万1165人)、スウェーデン(9297人)、デンマーク(8702人)の順だ。
米人口統計局の2000年資料を見れば、米国に養子に来た子供達のうち、韓国出身が24%で1位を占めた。
中国が2位、ロシアが3位だった。2000年代に入って米国に送られる韓国人養子の数は少し減った。
「世界最大の子供輸出国」の汚名は兔れた。しかし、去年も韓国はグアテマラ、中国、ロシア、
エチオピアに続き5位を占めた。韓国は相変らず米国に子供を養子として送る主要国家だ。
(中略)
しかし、韓国の海外養子は政府ではなく「市場」によって成り立っている。ホールトのサイトを
見れば米国家庭が韓国の子供を養子にするために支払わなければならない数値が出ている。
1万7215ドルだ。「養子市場」で韓国の赤ちゃんは一番高い。利口だとうわさが立って外国の養子を
希望する親たちに人気が高い。サイトにはブルガリア1万6千ドル、中国1万1360ドル、ネパール1万
2千ドルと書かれている。これらの金額はある国家が児童の人権にどれほど鈍感なのかを現わす
指標と見ても大きな問題はないだろう。
(後略)
ソース:ハンギョレ新聞(韓国語) 利口な’韓国の子供 2169万ウォンです
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