09/05/06 23:41:17
(ソウル=聨合ニュース)韓半島は大陸の端っこにあるため、昔から上から大陸勢力である中国あるい
は北方民族、下からは海洋勢力である日本と対立しなければならなかった。19世紀に西洋の文物を
受け入れた開化期を除いて、大陸勢力に最も強く属した時期は高麗の「元干渉期」だ。これは江華島
に入ってモンゴルの侵略に30年間抵抗している時、開京(ケギョン訳注:現在の開城)に遷都してから
恭愍王初めまで約80年間の時期を言う。
特にモンゴル帝国で最高の勢力を享受したクビライ・カンの時、その従属はピークに達した。景宗、元
宗などと呼ばれた高麗の王は「忠Ο王」に格下げされた。このためにモンゴルが自分たちに服属しな
い日本を征伐しようとすると高麗は「泣く泣く」援軍を送らなければならなかった。結局、高麗は麗蒙聨
合軍の名のもと日本遠征に参加した。
「高麗武人の話」などを通じてこれまで高麗史を続けて探索して来た歴史著述家イ・ソンハン博士が
最近出した「クビライ・カンの日本遠征と忠烈王」は第1,2次麗蒙聨合軍の日本遠征を通じてモンゴル
と高麗の関係を分析する本だ。
著者に従えばモンゴルが高麗を実質的に支配した80余年間、両国関係の構造やフレームはクビラ
イ・カンによって確立された。モンゴルは日本征伐のための征東行省を高麗に設置し、駙馬関係を通
じて高麗国王の地位を規定した。征東行省は遠征が失敗に帰してモンゴルの地方行政機関として高
麗に対する内政干渉の仕組みで性格が変わった。このような構造やフレームは高麗を日本遠征に効
果的に動員しようとする意図で用意されたものだった。
しかし、モンゴルの努力にもかかわらず2回にわたった麗蒙聨合軍の日本遠征はどちらも失敗に終
わった。よく知られたとおり台風のためだったろうか。著者は台風の影響よりは遠征軍内部の要因が
もっと大きかったと分析する。1次遠征(1274年)は真の征服よりは日本に恐怖を感じらせようとした武
力デモ的側面が強かったし、2次遠征(1281年)も遠征軍の規模だけ大きかったがモンゴルの全国力
を傾けた遠征ではなかったというのだ。
著者は1次遠征の失敗は▲麗蒙聨合軍の軍隊が4万人に過ぎなかったという点▲博多湾に成功的
に上陸して日が暮れたという理由で戦艦を撤収したという点▲南宋を征服できなかった状態で遠征準
備を完全に高麗政府にだけまかせたという点等を指折った。
2次遠征失敗ではモンゴル主力軍だった約10万人の南宋出身軍人がほとんど流民に近い程度に水
準が低い軍人だったし、日本の鎌倉幕府に十分な準備期間(7年)を与えた、という点等をその理由に
あげた。著者は「第2次遠征で台風がなかったら、遠征軍が沿岸の島程度は掌握して遠征をもうちょ
っと長くびかせることはできたが、遠征軍が京都(天皇がいた場所)や鎌倉(将軍がいた場所)を攻撃す
る事はなかっただろう」と主張した。
著者はまた日本遠征を準備しながら高麗政府が人的、物的苦痛を経験したが、その副收益として「農
業と義務兵制の発達を持って来た」と言う分析も加えた。軍糧米確保のために設置した屯田は農業
特区に発展したし、遠征準備で農民たちを動員しながら義務兵制が一般化され始めたというのだ。
384ページ。1万7千500ウォン。
ソース:毎日経済(韓国語) [失敗に終わった麗蒙聨合軍の日本征伐]'クビライ・カンの日本遠征と忠烈
王'出刊
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