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■【広開土王碑】より
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳> そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、
百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
■【隋書】より
新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來
<訳> 新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。
■朝鮮半島南部にある前方後円墳群
現在までに全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。
朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、
百済の国境に沿った伽耶の地のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、
内部をベンガラで塗った石室といった大和系遺物を伴うことが知られている。そのため、
大和朝廷から派遣された官吏や軍人、大和朝廷に臣従した在地豪族などのものと見られており、
大和朝廷による直轄的な経営の根拠とされる。
光州月桂洞古墳1号墳 URLリンク(21coe.kokugakuin.ac.jp)
光州月桂洞古墳2号墳 URLリンク(21coe.kokugakuin.ac.jp)
※ 関連する大和朝廷側人物
タリの国守 穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)
継体紀七年六月条に引く百済本紀には、委(やまと)の意斯移麻岐弥(おしやまきみ)とあるとされる。