【日韓】新羅の夫婦が海を渡り日本で神様として慕われていた…日本と韓国はむしろ仲が良かったのです(毎日新聞)★3[04/22]at NEWS4PLUS
【日韓】新羅の夫婦が海を渡り日本で神様として慕われていた…日本と韓国はむしろ仲が良かったのです(毎日新聞)★3[04/22] - 暇つぶし2ch407:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
09/04/29 11:21:26 pvmCafQa
81:
韓国の正史である三国史記「新羅は日本人が作った」「新羅王は日本人」

周知の事実ですが、新羅の第四代王の昔脱解(在位 57年-80年)は日本人です。
三国史記『新羅本紀』脱解尼師今 を読んでみます。

【三国史記】
脱解尼師今が立った、一説に吐解という。時に年六十二歳、姓は昔。妃は阿孝夫人。脱解は、本来は多婆那国で生まれた。
その国は倭国の東北一千里に在る。初め、その国王は女国の王女を娶って妻とした。懐妊から七年、大きな卵を産んだ。
王が言うには「人にして卵を生むのは不祥である。適当に廃棄せよ」。その王女は忍び難く、絹布に卵を包み、宝物と一緒に
棺(ひつぎ)の中に安置し、海に浮べ、その行く先を(潮流に)任せた。

多婆那国ですが、実在する国と考えた場合、倭国の東北一千里ですから、日本列島以外に想定できません。具体的には、丹波国が
有力です。8世紀に丹波国は丹波と丹後に分割されます。 卵や棺(ひつぎ)は当然、「船」を意味します。卵生・箱舟神話です。三国遺事には「船」と明記されています。
【三国遺事】  
脱解歯叱今(吐解尼師今とも)。 南解王の時代、駕洛国の海中に来泊する船があった。その国の首露王と臣民は大騒ぎで迎えた。
まさにこれを係留しようとすると、船は飛ぶように走り去り、鶏林の東の下西知村阿珍浦に到着した。

要するに、船で倭国から渡来した人物です。更に言えば、

【三国史記】
初めは金官国の海辺に着いたが、金官人はこれを怪しんで取得せず。また、辰韓の阿珍浦海岸に漂着した。これは始祖・赫居世の
在位三十九年のことである。その時、海辺の老婆が(船を)縄で引き寄せて海岸に繋留させた。これを開けて見ると、一人の童児が中にいた。その老婆はこれを拾得して養育した。成長すると身長九尺、風貌は秀逸で明朗、智識は人に優れていた。あるいは曰く
「この児の姓氏は不明。初めて来た時、一羽の鵲が飛来し、鳴きながら随伴したのだから、鵲の字を省略して、昔を以て氏と為す。また、解いて出てきたのだから、脱解と名付ける」。

金官国とは弁韓の一国です。このことから、脱解が対馬を経由して渡来したことがわかります。

【三国史記】。
脱解は初め、漁釣りを生業と為し、その母を供養し、未だかつて懈怠の様子はなかった。母が言うには「汝は常人に非ず、骨相は
特異、宜しく学修し、功名を立てなさい」。ここに学問に専念し、地理にも通じ、楊山の麓の瓠公(瓢公)の居宅を展望して、
吉運を生む地勢と観た。詭計を設け、詐取してここに住む。その地は後に月城となる。
【三国史記】 
南解王の治世五年(8年)、彼(脱解)が賢人であるとの噂を聞き、娘を彼の妻にした。治世七年(10年)には大輔に登用して、
政事を委ねた。儒理が死に際して「先王は遺命に曰く[私の死後、無論息子や娘婿を問わず、年長の賢者を以て王位を継がせよ]。
これを以て私が先に立ったが、今度は宜しく(脱解に)王位を相伝する」。
【三国史記】
二年(58年)春正月、瓠公(瓢公)に大輔を拝命。二月、自ら始祖廟で祭祀。


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch