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大阪毎日新聞特派員、高石真五郎がオランダ・ハーグから放ったスクープ記事は、一大セン
セーションを巻き起こした。1907年、韓国密使事件の始まりである。
日露戦争の勝利を背景に、この2年前に結ばれた日韓協約で韓国の外交権は奪われていた。
皇帝・高宗は日本の強圧による協約の無効をハーグ平和会議で訴えようと、3人の使節を
派遣したのだった。
のちに主筆、会長を歴任し東京五輪、札幌五輪の招致に尽くす高石も、当時は28歳。密使
を探しだし面会した唯一の日本人として、彼らが露英米仏に取り合ってもらえないことなど
を連日報じる。世は帝国主義の時代だった。
村瀬信也上智大教授によると、そうした中でも使節たちは高石を信頼し内実を詳しく打ち明
けていた。「あなたは新聞記者だから会うが、日本の官僚に会う必要はない」と語った記録
も残っている。
「赤心より国家の衰亡を憂ひ、進んで此(この)任に当れる如(ごと)き概あり」。立場は
違っても、高石は使節への賛辞を惜しまなかった。「西洋中心だった19世紀までの国際法
を拒絶したことは普遍的意味を持つ」と評価する村瀬教授は、モスクワに住む、最年少の
密使の孫を突き止め話を聞いた。
朝鮮半島の安全保障はいつの時代も日本の難問だ。北朝鮮ミサイル発射をめぐり国連安保理
は議長声明で決着したが、安定化の道は遠い。
約100年前、民族自決の声を伝えた高石の報道に日本は硬化し、皇帝の引責退位につなが
った。日々に追われる新聞人が歴史にたえる識見を備えるのは簡単でない。それでも多くの
人に会い国際社会の現実を伝える仕事は、一方に傾く世論に訴える力をいまもきっと持って
いる。
岸俊光(学芸部)
毎日新聞 2009/04/18 00:36
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