09/04/08 22:09:13
■初の“撮りたい映画”がヒット作『男たちの挽歌』
転機が訪れたのは85年。香港に戻ったウーに朗報が届いた。長年撮りたいと切望してきた「ヒューマンな犯罪映画」にゴーサインが出た。
それが出世作『男たちの挽歌』だ。
「撮影が終わったとき、必ずヒットするという確信があった。この成功のおかげで、私は自分の直感を以前よりも信じることができるように
なったのです」
『男たち―』は、二丁拳銃、メキシカンスタンドオフ(拳銃を相手に向け合う)、スローモーションを多用したアクションなど、ウーの映画に
欠かせない要素がすべて詰まっている。むろんウーが言うとおり、単なるアクション映画ではない。
「香港に帰ってきたときに、まず気づいたのが若者の心の変化。エレベーターに乗っていたとき、隣にいた若者が何のためらいもなく
床につばを吐いた光景を目にして、中国人の伝統的な仁義の精神や家庭観念がなくなっていると感じた。映画ではみんなが忘れた
こうした精神を描こうと思ったのです。この映画を見た多くの観客が涙を流しました。それはみんな私と同じような気持ちを抱いていた
からだと思う。仁義の精神や道徳観念は喪失してしまったのではない。忘れていただけなんだと」
『男たち―』はシリーズ化され、いずれも大ヒットする。この頃、現在に至るまで製作・監督でコンビを組むことになるプロデューサー、
テレンス・チャンと知り合う。当時、チャンはウーから「三国志」を映画化したいと提案されたことを覚えている。だが、チャンは時期尚早と
判断した。チャンは言う。
「三国志の映画ならヒットするという確信はあったが、実際に撮影するのは簡単なことではない。当時はCG技術だって登場したばかり
だしね。資金もなかったし、香港には広いロケ地もない。彼がそう言っても私には冗談にしか聞こえなかった」
(中略)
理想とする作品を撮れないジレンマ。「どんな作品をやりたいか」とインタビューで聞かれるたびに「三国志をやりたい」と答えていた
ジョン・ウーの姿をチャンははっきりと覚えている。そして、04年、機が熟したと判断したチャンは、三国志の映画化にゴーサインを出した。
■次回作も「アジア映画」で 理想の映画を追い求める
三国志の映画化をめぐっても、紆余曲折があった。製作費100億円クラスの大作だけに、当然、チャンはハリウッドの主要な映画会社に
最初に話を持ち込んだ。だが、まとまらなかった。原因はアメリカ人の三国志への理解不足。「映画会社から『登場人物はこんなにいらない。
曹操、劉備、関羽を一人にまとめてほしい』と言われたこともある」と、チャンは明かす。三国志ファンが聞いたら腰を抜かすような話だ。
自分の思いどおりに撮るためにハリウッドの要求をはねつけたウーだったが、結局中国の映画会社や日本のエイベックスなどから
出資を得て、「アジア映画」として製作されることになった。ウーにとっては、かえって幸いだったともいえる。
ハリウッドを離れ、中国の地でウーは、一切の妥協なく、理想の映画を作ることができた。作曲を担当した岩代は、「撮影現場の空気を
肌で感じてほしい」と、長期にわたってウーと寝食をともにするよう要請された。監督と作曲家との打ち合わせなら、会議室で行うのが
通例にもかかわらずだ。岩代はウーにこう言われたのを覚えている。
「撮影現場には中国人も韓国人もモンゴル人もアメリカ人もいる。君という日本人もいる。みんなかつては戦っていた民族同士だ。
それが今こうやって志を同じくして、一つの作品を作っている。この光景こそが自分にとっての理想なのだ」
(以下略。ロングインタビューの抜粋です。全文はソース元でご確認下さい)
ソース(東洋経済オンライン、「ジョン・ウー―レッドクリフを作った男の執念」)
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