06/06/05 19:26:01 mk5EL2Ga0
>>498
その通りで江戸時代は一つしかないですね。
しかし明治・大正年間で鹿児島への行幸の際の演武大会や東京・神戸などの道場開きなどの
公の場では「薬丸家野太刀自顕流」「薬丸野太刀自顕流」と言った記述が残っています。
「野太刀自顕流」とい名称が古い文献に書かれてあったという事実や明治・大正で幕末の志士
達が存命だった時代に公の場で使用された事実から正式名称は「薬丸家野太刀自顕流」ではないだろうか?
と推測した次第です。
古老の聞き取りにより又、ここでの誰かさんの書き込みでもありましたが薬丸家は島津家に対して陪臣であり
その為公に流派名を標榜する事ができず、勿論宗家制度はとっていなかった。というより取れなかったという事
です。
その根拠に二の丸で稽古が許されたのも文久といった幕末にはいってからで、それまでは稽古する人間が多数いても
藩に認められる事はなかったのです。
逆に言えば薩摩琵琶のように宗家制度を取らないため、下級武士や町人などが習う事ができ門弟が増えたものと
思われます。
現に自顕流は薬丸家以外でも指南している人間が多数おったようで見よう見まねで真似る輩もいたそうですから・・・
今日会派でもめているのは、このように宗家制度をとっておらず。又公に流儀名を標榜できなかった事が原因と
なっているのかも知れないですね