09/12/01 18:50
>>633
それの何が悪いのか、ということ。
倫理や道徳の怖さというのは、少数派の価値観を圧殺してしまうことにある。
もちろん、国家という一つの社会を運営していくうえでは、
ある程度、多数派にあわせていく必要がある。
けれど、「行為」と「表現」は別だ。
いくら少数の価値観でも、表現は行為と違って保護されなければならない。
なぜなら、表現はその少数派の価値観が存在することそれ自体を知らしめる手段であり、
ポルノのような娯楽表現に関していえば、その価値観に基づく社会のもつ快楽を表現することにより、
既存の多数派の価値観と闘技(アゴーン)して、社会的価値観を変更していくことができるからだ。
こういう闘技の存在は、民主主義と自由主義の絶対的な前提条件になっている。
人々の意思が、自由な意見のぶつかりあいによって形成され、多数派意見というのも、
そのほかの少数派意見の攻撃に耐えてこられたという実績があるからこそ、倫理や道徳として採用される。
もし、ある倫理基準に満たない表現が、自主的にせよ、あるいは法的にせよ排除されるのならば、
闘技の自由は保障されず、したがって、それによって作られる多数派意見も、単なる宗教的信念以上の何物にもなりえない。
だから、表現が道徳や倫理によって圧迫されてしまうこと自体、大きな問題がある。
例えそれが人々の感情に訴えやすい事柄であっても、
表現が道徳によって有形無形のかたちで制限されているという状態は、決して認めてはならない。
それは自由への冒涜に他ならない。