08/03/02 01:19:30 MwO6bhVx0
また、それ以前の問題もある。これの方がより重大に違いない。たとえば、現代のカトリック教会においては
主日のミサが実際には、「 掟 」にはなっていないことである。ある信者が教会に来なくなっているのに気づい
ても、司祭は「 まあまあ、長い人生には色々なことがありますよ。しかしそれでも神様はその人のこともお気
にとめていらっしゃるのです」などとまとめて、迷った羊を立ち返らせるための積極的な働きかけなどチッとも
しようとしない。しかし、もし現在の教会において文字通りの「掟」があり、「掟」に背くことが文字通りの「大罪」
になっており、【 大罪 】の状態がそのままでは【 地獄行き 】を意味していることに文字通りなっており、そして
もし自分の息子のことで親が司祭に相談をしており、その彼が年に数度しか教会に来ないのを知っていたな
らば、司祭が家族に「 今度一度私のもとに彼を来させなさい 」と言うぐらいのことは、司祭としてごく当然のこ
とだったと言えるだろう。( しかし、今、そんな動きは教会の中に「 100%ない 」と言ってもいい)。
司祭は、聖ピオ十世の公教要理の始めにある 「 本当のカトリック信者とは 」 という古い言い回しに固執する
ことによって、「 名簿上のカトリック信者 」 を救うこともできたのではないか。そしてもちろん、この事件の被害
者達をもである。 しかし、現在の教会では、「 掟 」も、「 大罪 」も、「 救霊 」も、「 地獄 」も、何もかも薄く伸ばさ
れてしまっている。
悪魔は狂喜している。
主の御聖櫃の前で神父が殺害されても( もちろん聖徳の司祭であった場合、殉教の可能性もあるけれど )、
御聖堂の横で悪魔に犯された哀れな信者が散弾銃で自分の頭を吹き飛ばしても、「 主に申し訳ない 」と思わ
ない、「 私達の罪だ 」と思わない、「 教会をあげて償いをしなければ 」と思わない。ただひたすら「 事件だ 」と
思ってぼんやりしている。