09/03/25 18:22:02 6fdadD+m
なぜ日本はこんなに孤独を許さない社会、自分になれない社会になったのだろう。
たえず職場や学校の友達、家族、恋人とつるみ、群れなければならない社会に
なったのだろう。群れることは大人の証しというよりか、よほど子どもや弱い人間
のすることに思えるのだが、この社会ではなぜか孤立のほうがもっと悪いことに
思われている。
単純に企業社会の要請だったのだろう。工場や会社で仲間とうまくやり、仕事を
遂行するための能力、それがわれわれの孤独恐怖社会をつくったのだろう。
工業社会の代替可能な規格品になるためには集団内においても、だれとでもうまく
接合し、結合する能力が必要になる。学校という空間も、集団で同調する技術を
長年にわたってしこませる訓練機構である。こうして市場経済の要請からわれわれ
は群れることや同調の技術を過剰にたたきこまれてきたのだろう。
しかし戦後50年、同調社会からぽろぽろ漏れる人があらわれだした。登校拒否や
ひきこもり、フリーター、晩婚、離婚などの片親家族。過剰な仲良しゴッコ社会が
みんな耐えられなくなっているのだ。富の蓄積や豊かさがそういうことを可能に
したこともあるのだろうが、群れ社会から逃走する人が、この同調社会を維持
できないほどに増加しつつある。孤独はこれからの知識情報社会といわれる独創、
創造力をつちかうさいには不可欠となる環境である。
仲間とつるみ、仲間の基準が神となるような人たちにはおよそ不可能な事柄である。
かれらはかれらで楽しい思いをしているのだろうが、ほかの人を楽しませたり、
感動させたりする技術や創造力をもたないし、だいいち人に合せてばかりいるので
自分がない。創造社会においては孤独の意味が見直されるだろう。