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Wikipediaで世界遺産 - 暇つぶし2ch75:,精巧な長首瓶と砂漠のガラス
08/07/26 20:41:16 P1pRpJSf0



「古代の海王たちの海図」の最終章は「消えた文明」と題されている。その章の冒頭でハプ
グッドは、古代の海図が「きわめて遠い過去、現在知られているいかなる文化よりも以前に、
真の文明が存在した、、、、、それは全世界規模の文化だった」ことを示しているー-との確
信を繰り返し述べている。そして彼は警告の言葉を発する。

若いころ、私は単純に進歩を信じていた。人類がひとたび進歩の里程標をひとつの道にお
いて通過してしまえば、その同じ里程標別の道において再び通過するということなどあり
えないと考えていた。ひとたび電話が発明されれば、それはずっと存在し続ける。もしも
過去の文明が消滅したとするなら、それは彼が進歩の秘密を学ばなかったからである。科
学は恒久的な進歩を意味している。そこに逆行は無い、、、、、、この関係は永遠に続くのだ、
と」

だが古代の智頭はその思い込みとはまったく違うことを教えてくれた、と彼はいう。すな
わち、進歩と逆行することがありうるということだ。

ナイルを遡行する私のたびもまた同じことを教えてくれた。古代エジプト人は特定の事柄
に関して、現在のわれわれよりももはるかに多くのことを知っていた。そしてその知識の
ほとんどは失われてしまったという事を。



76:,
08/07/26 20:42:45 P1pRpJSf0

考古学者fゥリンダーズ・ピートリーは、1890年代にそのことを示すなぞに満ちた実例に遭遇し
た。ナイル湖畔のナカダと呼ばれる材を発掘していて、彼が発見した陶器とビンはきわめて高度
なものであったので、彼はこれを紀元前2000年ごろの第11王朝のものと考えた(つ
まり大ピラミッドの500年後だ。)だがその王朝史にはそのような民族の痕跡が無かった
ため、彼はこの民族を「新人種」となづけた。そして、紀元前3000年の墓所からまっ
たく同じ陶器を発見した彼は、「原始人」がどうやってこんな高度な陶器を作れたのかを説
明しようとはせづに、彼の年代記から「ナカダ」を省いてしまった。

紀元前2650年ごろに造られたとされるサッカラの階段ピラミッドで長首瓶が発見された際
も、同じような問題が生じた。その瓶は水晶、閃緑岩、玄武岩などのような結晶化した素
材から掘り出されたものだった。考古学者は首をひねった。これを作った職人は、どうや
ってその瓶の内側を削ったのだろうか?

このような加工のためには、長い首の下のほうまで届く長いドリルばかりだけではなくー
-その首は子供の指すら通らないほど細かかった―きわめて細部に内側を削ることがで
きる何らかの道具が必要だ。そこで、職人たちはクリスタルを粘土程度にまでやわらかくしたり、
あるいはガラスのように溶かしたりする何らかの手段を持っていたのではないか、などとい
うありえない想像もしたくなる。古代エジプト人は明らかに今は失われたテクノロジーを持って
いた、と。1957年、ハプグッドはこれと似た問題に助言を求められたー-リビア砂漠のガラ
スのなぞだ。このガラスが世に知られるようになったのは、その4半世紀ほど前、1932年、
12月のことだ。2人の英国人が、砂漠の中の砂の無い回廊のような道を車で走っていた
(実際にエジプトにはそういう場所がある)。エジプト砂漠測量局のパトリック・アンドリュー・クレイントン
と、その友人で大英博物館の鉱物管理者であるレナードスペンサー教授だ。


77:,
08/07/26 20:44:36 P1pRpJSf0
運転中、彼らは地面になにやらキラキラするものにあるのに気づいた。それは美しいガラス片で、
大きさは豆腐程度から卵ほどのものまであった。スペンサーはそれらをテクタイトだと考えた。テクタイ
トというのは一種のガラスで、おそらく隕石として地球に飛来したと考えられている。なぞと
いうのは、そのテクタイトが地表面に露出していたことだ。通常、隕石というものは地中に埋も
れた状態で発見されるのである。

2人はこの美しいものをー-アラブの職人はジュエリーの材料として珍重していたー-

1ハンドレッドウェイト(約50キロほど集め、カイロに持って帰った。だが詳細に調べれば調べるほど、
それはますます奇妙な物体であることが判明した。第一に、その一部は意図的に打撃を加
えたような割れ方をしていた。ちょうど、先史時代の手斧の側で発見される火打石の破片
に似ていたのである。もう日とつなのぞは、その量だ。テクタイトというものは比較的希少であ
り、ハンドレッドウェイト単位で見つかったりするものではない。

化学分析の結果、それはテクタイトなどではなく、砂漠の砂と同じ珪素でできているということ
が判明した。では、なにがそれを溶かしたのか?あたりにはクレーターの痕跡はなかった。

ひとつの興味深い標本が、この問題に関して奇妙な選択肢を示していた。それはレモンほどの
大きさだったが、きれいな穴がまっすぐに貫通していたのだ。まるで、それがまだ溶解中
に、誰かが金属棒を突っ込んだかのようだった。そしてさらに二つの穴が、「試錐孔」の様
に途中までうがたれていたのである。

全体として、それはあたかも人間の手で作られたガラスのような風情だったのだ。その中に
含まれるいくつかの気泡は、ちょうど溶解中に外力を加えられてねじられたかのように、
奇妙な形に引き延ばされていた。クレイトンとスペンサーは1933年、これを王立地理学協会で発
表した。群衆の中にとりわけこれに興味を引かれた人物がいた。名はフランシス・ジェイムズ・レンネル。
彼にロッド男爵レンネル卿となり、王立地理学協会の会長を務めることになる人物だ。


78:,
08/07/26 20:46:55 P1pRpJSf0

彼は第一次世界大戦中にエジプトで参謀将校を務め、後にはサハラ砂漠探検にも加わった。
そしてリビア砂漠のガラスのなぞにとりつかれたのだ。

これを造ったのはいったいどういう人間なのだろうか?その地域の岩面彫刻は紀元前55
00年ごろのもので、漂泊民が描いたとされる。もしも彼らがあのガラスを作ったのだとし
たら、紀元前6000年期のこの周辺にはかなり高度な文明が存在していたということに
なる。

50年代末、ネンネルは英国原子力公社のチーフ・エンジニアであるジョン・R・Vドーフィン博士にこのな
ぞについて話した。するとドーフィンは、かつてオーストラリアの砂漠で似たようなものを見たことが
あると言い出した。だが彼はそれがどうやってできたものかを知っていたー-核実験の産
物だというのだ。

ドーフィンはオーストリアのガラスをレンネル卿に見せた。卿は、それが驚くほどリビア砂漠のガラスに似てい
ることを認めた。リビアの試料と同様、ドーフィンのオーストリアのガラスにも、事実上まったく水分が
含まれていない。形成時の異常な高温がその原因だ。ドーフィンの試算によれば摂氏6000
度に上るという。



79:,
08/07/26 20:51:13 P1pRpJSf0

これによって、このなぞに新たな次元が加わった。色つきガラスは錬金術師たちが夢中にな
ったテーマのひとつであり、錬金術はギリシア=ローマ時代のエジプトでも、また古代インドや中国でも
研究されていた。だが、錬金術師の実験がこれほど大量の試料を作り出したのだろうか?
あるいはこのガラスは、何らかの工業プロセスの副産物だったのだろうか?このガラスは、古
代エジプト人に先ずる人々が、原子力を使っていたことを示しているようにも思われる。
それが制御不能となり、爆発を起こしたのだろうか?

レンネル卿はその可能性を真剣に考えた。彼自身、古代エジプトで作られた純金製の首飾りを
所有していたからだ。通常の冶金技術では、不純物のすべてを除去することはできない。
つまり純金の精錬は不可能ということになる。現在では、金の精錬には科学処理法が用い
られるが、その方法は古代世界では知られていなかった。もうひとつの方法は、ちょうど
酒を蒸留するのと同様、気化するまで金を熱し、これを冷まして不純物を除去するという
やり方だ。だがこの方法にはきわめて高い温度が必要となる。超高温を工業プロセスで用いる
には大量の水が必要。そしてリビア砂漠には水が無い。だが、この砂漠は過去もずっと乾燥
したままだったのか?




80:,鳥に変身して地上絵を見る
08/07/27 08:16:30 wRyDo9ND0
URLリンク(ja.wikipedia.org) ナスカの地上絵

カラワヤ族の故郷から西へ300マイル(約480キロ)行くと、ナスカ平原がある。巨大な鳥や動物の
絵、直線や幾何学模様などが地平線のかなたまで広がっている場所だ。

この地上絵の存在に最初に気づいたのはペルーの考古学者トリビオ・メヒーア・ヘスペ、1929年のこと
だった。だが、それが世に知られるようになったのは、1940年代にロングアイランド大学の歴史
家ポール・コソク博士が発表して以後だ。

1941年6月、コソクは古代の運河(化成の運河にたとえられてきた線)を探すために飛行機
でナスカ上空を飛び、赤い砂漠の表面に、まず鳥の線画を、つづいて巨大なくもを見た。さら
にコンドル、蝙蝠、シャチ、花などもあった。さらに崖の表面には、900フィート約270メート
ル)に達する人物像がああり、それはあたかも彼をもむかえいれるかのように両腕を広げ
ていた。

コソクはその線画を調べ、後にはドイツの学生マリア・ライトへと合同した。彼女は終世この地にとど
まることになる。彼女はその線画の目的についてはまったく不明としながらも、おそらく
何らかの天文学的な目的を持ったもの、たとえば巨大な暦などではないかと考えた。図案
に関しては、彼女の説によれば、ナスカの原住民が経済的に反映していたころ、彼らは氏族に
分かれており、これらの図は士族の紋章のようなものだったという。

直線と絵は、砂漠の表面の赤茶色の石を注意深く除去することによって造られている。こ
のパンパにはほとんど風が吹かないので、1000年もの間、そのままの姿をを留めていたのだ。
いうまでもなく、その石の年代を測る術はない。だが陶器や墓の副葬品などの工芸品から、
ナスカ族は北の隣人であるモチェ族と大体同時期にいたことが分かっている。



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