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【産経抄】10月31日
2009.10.31 02:51
このニュースのトピックス:産経抄
後の名横綱・大鵬、納谷幸喜少年が二所ノ関部屋に入門したのは昭和31年夏のことである。16歳になったばかりだった。
北海道の摩周湖に近い川湯温泉の中学を出て営林署で土木作業をしていたところ、部屋のOBの目にとまったのだそうだ。
▼同じ北海道で巡業していた部屋を訪ねると、そのまま東京へ連れていかれることになった。残された母親は「そんな遠い
所へ」と嘆いたという。だが樺太(サハリン)から引き揚げ、北海道内を転々とする生活を味わってきた少年は、前途への希望
を持って上京したらしい。
▼それでも上野までの列車には座る所も寝る所もない。当時はまだやせていたから座席の下の隙間(すきま)に入って寝た。
日経新聞の「私の履歴書」で、そう振り返っている。入門しても80人の大部屋で、南京虫に悩まされる毎日だったが、ひたむき
な稽古(けいこ)で横綱への道を歩む。
▼そんな納谷さんの話を読んだり聞いたりすると、ついつい集団就職のことを思い起こす。主に中学校卒業者が列車で都会
に向かう集団就職が始まったのは昭和26年ごろからだという。30年代になると急速に増えており、納谷さんらも「集団就職
世代」といえるだろう。
▼鹿児島県など特別に集団就職専門の夜行列車を仕立てた。ところが座席が足りず、2人席に3人座らされることもあった
という。15歳そこそこの少年・少女にはつらい旅立ちだった。それでも日本の高度経済成長は、この人たちの働きなしには
ありえなかったのだ。
▼その納谷さんが相撲界初の文化功労者に選ばれた。相撲は立派な伝統文化である。それをあんなに盛りあげた横綱・
大鵬であれば、当然のことだろう。だがもうひとつ、日本社会を支えた集団就職世代への顕彰だとも考えたくなる。