09/05/26 02:09:08 wpZqxlg2O
>>44の続き
まず結論があって、そのために客観的データが利用されているということです。
つまり、どんな現象があっても、それはどうでもよくて、
つまり結論として逸脱した存在の大阪がテレビ文化では必要だったということです。
気持ちを込められる人たち、同一化の対象になる人たちは東京弁。
それに対して、「私たち」には関係のない「彼ら」は関西弁が割り当てられているのです。
この図式は、ほぼすべてに成立しています。
他者として描かれる大阪を大阪自身が受け入れている傾向があるということです。
93年の調査では、学生はこの大阪のイメージにかなり反発をしていましたが、
今年の調査では、「それが大阪でしょう、それが関西でしょう」というぐあいに受け入れています。
もうひとつ、吉本的お笑いの貧困というのを私は感じています。
大阪の漫才というのはわりあい自分を笑っていたのに、自己ではなく大阪を笑う。
つまり東京で私は大阪をよく知っている物知りとして大阪のおばちゃんなり、
大阪を笑うという漫才、あるいはそういうコメディアンが非常に増えている。
それは非常にうまく東京のメディアで受け入れられた。
まさにそれは、我々の世界で予言の自己成就というのですけども、大阪、関西、そうじゃなかったよと言っていても、
そのメディアで繰り返しやられているうちに、一部、逸脱した人間は、いや、大阪人なんだからいいとかという言い方をして、
実際にそういう人が増えてきたりしてしまうという現象が起こっているように思います。