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東京大空襲で一人娘失う、孤児500人の95歳母が半生記
3月8日14時33分配信 読売新聞
1945年の東京大空襲で家族を失い、戦後は戦争孤児らの母親代わりとなって福祉施設で働いてきた女性が、その半生を冊子にまとめた。
500人を超える子供たちから「お母さん」と呼ばれてきた女性は、彼らに寄り添ってきた年月を「自分の娘が『私の代わりに育てて』と言っている気がしたから」と振り返る。
冊子「炎の中、娘は背中で…」は、空襲から63年目となる10日に出版される。
現在、東京・国分寺で妹と暮らす鎌田十六(とむ)さん(95)の自宅には、夫・茂さんと実母うめさんの遺影があるが、一人娘の早苗さんの写真はない。
「生後7か月で、写真を撮る間もなく逝ってしまったから」だ。
63年前の3月10日未明、空襲で空が赤く染まる中、当時住んでいた浅草区(現台東区)の自宅から逃げ出した十六さんは、娘を背負ったまま隅田川に転落した。
刺すような冷たい水に意識が遠のく中、背中だけがわずかに温かかったことを覚えている。
意識が戻った翌朝、死体の山の間を歩いて避難所にたどり着いた時には、背中の娘も既に冷たくなっていた。
お地蔵様のような顔にヤケドの跡が痛々しかった。「私が助かったのは、背中が濡(ぬ)れなかったから」。
十六さんは今も「娘に助けられた」との思いがぬぐえない。一緒に逃げたはずの夫の遺体は1週間後に川底で見つかり、母とは生き別れになったままだ。
新しい「家族」に巡り合う転機は、1年後の46年3月、上野公園で戦争孤児たちを見たことだった。「娘が引き合わせてくれた」。
十六さんは板橋区にあった都養育院で孤児たちと一緒に暮らし始める。同院には戦後、繁華街からトラックで孤児らが次々と連れて来られた。
100人近い孤児を2人で世話した時期もある。盗みや脱走を繰り返す子どもを追っては、交番や学校を謝って歩いた。
子供たちから「お母さん」と呼ばれるうち、十六さんは笑顔を取り戻していった。
添い寝をした子供に朝、「僕の母さんのよう」と言われたのも思い出だ。