07/11/29 20:45:06 IBAclngu0
>>410
吉田にとってもこの条約の調印は、
日本の独立と復興を第一に考えての苦肉の選択だったのではないでしょうか。
以下、ウィキペディアからの抜粋ですが、吉田の苦悩が見て取れます。
>日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、
池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の六人全員で署名した。
講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。
講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、
吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先は
ゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、
日米安全保障条約にたった一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。