07/11/08 17:53:24 pGpZ1Cdo0
われわれの時代には、リベラルであった支配者の位置にとって代るのは金力である。
かつては信仰が支配した時代があった。自由思想は誰ひとりとしてほどよい使い方を知らない。
ゆえに、実現不可能である。人民を無秩序な群集に一変させるには、かれらに一定期間自治を
与えるだけで十分である。与えた瞬間から、共食い闘争が勃発し、階級間戦争に発展し、
その真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、かれらの権威は一山の灰燼に帰するであろう。
国家が内乱によって消耗するか、内部不一致のために外敵の手中に落ちるかでは・・どのみち、
その国は回復できず滅亡するほかはない。その時こそ、われらの出番である。
完全にわれわれの手中にある資本の専制力が、その国に救いの藁を差しのべると、
否応なくかれらはそれに縋りつかなければならない。拒めば・・底に沈むのである。
リベラルな考えをもっている人が、上述のような考えを不道徳であると言うならば、
私は次の問いを投げ返したい・・どの国も両面の敵をもっているとする。
外敵にはあらゆる策略を用い、たとえば敵には攻撃防御計画を伏せておき、
夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるならば、
さらに悪質な敵、社会と福利の破壊者に対して同じ方法を用いることが、
いかなる理由で不道徳かつ許しがたいと呼ばれなければならないのか?