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奥宮正武氏は元海軍中佐、大本営海軍参謀。戦後、航空自衛隊に入り、部隊長等を歴任。
退官時は空将。その後PHP研究所顧問等を務めた。
「構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、
軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江に投棄されていた。
岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。
が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の川
となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。
この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、
明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私がロを出す余地はないと
感じた次第であった。
このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。もっとも、二十六日と
二十五日前と二十七日後にどのような処刑が行なわれていたかは分からなかったが(註 第三〇旅団長佐々木到一少将の手記によれば、
十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日頃までに数千人の処刑をしたとのことである)、
二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興奮状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。
私は、この二日間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれば、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、
大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の
相違があるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、
莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。」