10/03/28 14:08:54
>>185
それ言えてるw
まぁ、宗教全般に言える事だが、時代背景に伴う人間の苦しみが宗教という形に変わって、
反社会的行動や反国家思想に自ずとも 進むのは何もおかしいことではない。
宗教が本能の気持ちであるのならば理性の象徴「国家」に刃向う定めにあるのではないか。
人間自身でさえ、理性と本能と常に格闘をしている。
具体的に「社会」がそれを映し出している。
誰が宗教に理性などを求めるものか。
そこに人間は宗教に魅力を感じ、心の癒し場とし生きる活力としているのかも知れん。
(本能的行動を戒めるために理性を求める者もいてるが国家は十分その役割を果たす力がある)
社会や宗教的理念で見て、罪のない人間などこの世には存在しないし、この宇宙から見れば 人間は存在する意味も無い。
だからこそ、人間は自らの存在を定義付けざるを得なくなるのではないか。
「そこに感情がある限り」
もしくは感情その物が罪なのかも知れん。
そこで、もし本能の宗教が理性の国家に転じようとすることになれば、それは宗教としての機能を捨てる事と同義になるのではないか。
本能と理性は決して同じではなく常に反発し合って宗教的理念が生まれる。
そこにこそ宗教の醍醐味が有るのではと思っている。
(ああ、ニホンゴ難しい)
まぁ、ぶっちゃけ理性国家に本能的要素を加えたらいいだけの話じゃん、て言われればそれまでだがw
例えばロシアでの宗教政策などなど。
しかし、宗教色の濃いキリスト教だからこそ国家では活かされた。