09/01/29 22:41:25
>>322
>一大事の秘法と御本尊の関係がこれで理解できなければ、呆気に語ることはない。
>※1「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり」
>※2「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、
> 只我れ等衆生の法華経をたもちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」
(都合上番号をふった)
出た出た(笑)久しぶりに見たこの返し(嗤)↑待ってたよ(哂)
さて、ここにある創価が迷釈して持ち出す「日女御前御返事」の箇所である。
所謂創価の『己心本尊論』とも言うべき捻じ曲げ曲解であるが、破折に移る。
まず、「法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。」であるが、
まずこの箇所の冒頭に「法華経を持ちて」というのは「御本尊を受持し」とも「一大事の秘法から受けるところの血脈(法脈)を受持し」とも釈す。
次に「南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。」とは、『一大事の秘法』から流れる血脈法脈を信じ唱える我等衆生に入り住するということである。
故に君が言うところの解釈はただの迷釈ということである。創価の中には「これは己(創価)は御本尊なんだぁ~」と発狂する者さえいる(哂)
であれば、その後に御教示の
※『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入とは是なり。
日蓮が弟子檀那等「正直捨方便」「不受余経一偈」と無二に信ずる故によて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。
たのもしたのもし。如何にも後生をたしなみ給ふべし、たしなみ給ふべし。穴賢。
南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。』
と、「御本尊もただ信ずる心におさまり、これを以信得入である」と御教示になられるのである。
己の身が最初から御本尊(『一大事の秘法』)が存するのであれば、この御教示は全く必要ではない。
それであれば、大聖人が前身の上行菩薩の時に釈尊から神力口伝によって結要付属された『一大事の秘法』が、元々衆生の身に存しているという狂った論理になるのであり、
「大聖人直結」と言う論理も破綻すれば、帰命対境としての御本尊は必要ない、
また、仏道修行は要らなくなり、己に向かって拝んでおればよいのである。