09/02/05 05:39:32
>>599
山椒島さんも上のレスで言われてますが、大聖人の頃(どんなのかわかりませんが、ただ原始的なと
いう意味合いで)のように、ただ、法華経を尊び、大聖人を心の師と仰いで題目と唱え信じるスタイルが
一番シンプルかもしれないですね。折伏のニュアンスも、議論を仕掛けるとかでなくて、信じた自分の
振る舞いを示し「論より証拠」で、相手のほうから尊敬と信頼を寄せることが今の時代に合っているように
思えます。宗教抜きで尊敬されている人なんて、数え切れないくらいにいますからね。
信仰上、なんらかの集団に属さなければ信仰が成り立たないこと自体、個人の信仰の自由に矛盾して
いて、「寛容さ」なしでは社会の中で共存できず、自分が孤立していくだけですからね。べつに学会や
正宗だけでなく、宗教にハマっている人独特の、「偏った性格」には誰だって違和感や嫌悪感を感じますし。
世界で一番信仰している人が多いイスラム教だって、とても堅いイメージが先行してますけど、元々
キリスト教より寛容だったから広まって支持されたのでしょう。
自分もはやくシガラミから抜けたいですが、価値観に縛られた信仰から抜け出して、信仰の本来の目的と
言われている「心の抑圧からの開放」を感じたいものです。
学会が宗門から離れ、破門されても学会を支持した会員が多かったのも、先生を信じてとかいうよりも、
既成仏教的な体質から抜け出して、新時代の仏教のスタイルを築こうとした試みに賛同したからでは
ないかと思います。少なくとも、バブルの時期と重なって、昭和のオワリの時代に活動していた人達は、
「伝統からの解放」を意味する「ルネサンス」という言葉に少なからず酔ってましたから。
引き際を見誤り、次世代に禍根を残し、組織を形骸化させていった、センセイや学会の幹部は会員に
対し腹を切らなければいけないのでしょうが、改めることなく見苦しいサマを見せ続けているので、こちら
から見切りをつけるのがベストな選択だと思います。彼らのために信仰しているんじゃないですからね。