08/06/04 22:52:14 tdN96uX5
>>474
じゃひとことだけ。
>だけど、理趣経 ◆viIIIIIIII の言うように、祟りや霊を信じる人もいるし、信仰によって人間らしい
>考え方を持っている人もいる
わかった。それじゃ、それがどうして教祖の絶対性を主張して信者に信じ込ませる
カルトが成立すると思う?すべては、その
>信仰によって人間らしい考え方を持っている人もいる
この「~もいる」のところが鍵です。つまり、「カルトは全部が悪い」わけじゃないわけです。
一部の正義は確かにあった。創価学会は昔は病気で見捨てられたような人が
一縷の望みを抱いて必死で縋って必死でお題目を唱えて、奇跡的に回復して
難病が軽くなって復活した人がいたりしたり、少なくともそれで慰められて生きる
元気をもらって喜びを感じた人たちもいたでしょう。そして今もいるかもしれない。
しかし問題はそこからですよ。そうした一部の「正しい」かもしれないこと、一部の
弱者の味方になったことを持って、「創価学会は庶民の味方だ、弱者を救える
のは創価仏法しかない」と、あたかも「創価学会はそれ以外に何をやろうとも
正義なんだ、なぜなら生命の力を増やしていぇって難病の弱者を気分だけでも
元気にしてやれている、これは創価学会が正義で正法だからだ」といって、後は
全部教祖大王のいいなりでやることがつまり正義の実践なんですとなってやる
こと全部が正当化され正義なんだと思い込まされていくわけです。ここの構造は
実は題目が効果があるから、それにくっつけた宗教的思弁が正しいんだと主張
している一連の現証主張と実際に通じるもおだったということなんです。
ではまた。