08/05/17 16:23:16 IXRbup+b
この、>>105の主張の正当性を考えてみれば、天台大師チギの説が蒙昧
の主張であったことは道理として当然認められるでしょう。
としたら、それを参照して構築した日蓮の信仰内容は、そこで破綻してしまう
のですよ。
天台大師チギは自分が開発した禅行であった「止観行」を実践して完成に
至ったと感じつつあった中で、
おそらく日蓮と同じように「妙法蓮華経」というそのタイトル、お題目を唱えた
ときに感じられる体感が、その止観行で得ることができた体感と似たもの
であることを知ったはずでした。
実際に止観行を行ったときに意識を意志的に止して観ずる統御をするときに
前頭葉に集中の感覚が生まれるのを感じることができます、それが題目を
マントラとして唱えたときの集中感覚とがよく似ているのです。
そこで彼は、これは「法華経に不思議な功徳があり、その内容がそのタイトル、
題目である「妙法蓮華経」にこめられているからだ」という「信仰」を持った
に違いありません。ここが天台思想の原点であったのだと推測されるのです。
ですから、日蓮もこれを感じたに違いなく、これはあくまでも止観行で行う「観心」
の「結果として得られる体感」、それと似ているということであり、題目が即効性
の集中力の増強、雑念排除の効果を持ちうるという意味での即席禅定効果と
してのカンフル剤的「薬効としての題目」が、禅行を代替するとして末法の行は
これに尽きる、と判断したというのが、日蓮の行持過程での発見的方法の結果
だったのだと推測されるのです。