08/03/26 17:37:23 BE:492735029-2BP(0)
それと>>292の文章は五時教判ばかりに拘っているけれど
その仏説否定については、その記録があったかなかったかだけの話ですよね~
では、内容を含め比べる事はいけないことなのでしょうか?
例えば、大乗では解けなかったものが小乗に答えがあり
小乗に答えが見出せなかったものが大乗に答えがあれば
それは双方とも生かすことが出来るんです そういう考え方は
>>292の人にはないのでしょうか?
符合すれば便宜上区別する事はあっても差別する必要はないんです
あとは相手の理解そのものに関わってくるのですが・・・
あとね~これは日蓮正宗の坊さんたちにも言うけれど
日興遺誡には“我”
つまり衆生が唸るような有効な方法が見つかれば
あらたな価値が見出せれば、それは大聖人の法門になると
そういう遺誡も残しているんですよ
だから創価が今の処大聖人の法門となってしまう訳
戸田先生と牧口先生、それに堀米上人や堀上人がその基礎を築いてしまったわけ
しかも、それはちゃんと生きているんですよ
だから既存の日蓮系は全て釈門と断じたって良いくらいなんです
ただ創価も現時点のままでは釈門化してしまう、否、釈門になっている
本門と言うのは新しい義
諸問題に対して解決が出来る義の異名でもあるんです
だから価値創造なんですよ