08/03/13 03:12:04 HCFMrYiK
ここで注意したいのは、その創価学会そのものも、全会員がそういったことを最初から理解しているわけではないということで、
創価学会そのものもまた、学習し進化してゆく生身の存在であるということでしょう。
そういう点で、組織内における“発展途上”の“習慣”に心痛めて、それを理由に信仰を諦めてしまうのは非常に勿体無いことだと個人的には思います。
ともあれ、個人を組織に閉じ込めてしまうようなものであってはならない。
どこまでも、個人の才能や可能性は無限に開花させるもの。
本来の日蓮の考えはここにあります。
『自体顕照』
日子ちんが日子ちんらしく、思う存分に輝く人生・・・。そのことです。
個々創価学会員も、仕事や健康、生活、人間関係・・・
社会生活を営んでいる以上、さまざまな悩みも抱えていることでしょう。
そういった背景が信仰面で冷静さを失うこともあると思います。
「必死になって・・・」、信心強情は結構なのですが、これが相手からすれば迷惑になることもあります。
紙一重のことかもしれませんが、「なんとしても救いたい」・・・この一念が根底にあるかないか、
「成果」と捉えて勘違いを犯してしまう・・・そんなことのないように、
「そもそも」を忘れないことが、学会員が信仰する上で永遠に付いてまわる課題です。
コアな信仰の話になって恐縮ですが、根底には、やはり題目(祈り=相手への思い)なき折伏はダメということです。
「祈られていないな」と思う折伏に出会ったなら、ハッキリ言ってやってください。
「オマエ、俺はオマエの祈りが感じられないぞ。そんなので折伏するな、出直してこい」とw
折伏された人に聞くと、真剣に祈られている人は、不思議と何かを感じるそうですよw