08/03/27 19:51:55 YjqtG4+7
私の莞島時代には、もう一つ忘れ難い出来事がある。
確か昭和五年のことだったと思うが、莞島の外れにある永豊という漁場が大変な不作になってしまった。
その浜は、海苔だけで生計を立ている貧しい漁村だった。指定商組合は、その窮状を見るに見兼ねて、
稗、粟を各五十石、麦を五十俵、救援物資として贈ったのだ。
その贈呈役となって私は永豊に行った。
村長以下村民総出で出迎えてくれたが、彼らの喜びと感謝の念は大変なものだった。
小さな私の身体が、その時だけは我ながら大きく見えたほどだった。さてそれからが問題だ。
村長が「村民を救ってくれたのに、この貧乏な村ではお返しするものとてない。
しかし、このままでは気が済まない。せめてものお礼に村の娘を差し上げたい」という。
私は「飛んでもないことだ」と固くお断りして莞島に帰った。
URLリンク(www.e-nori.com)
昭和初期に朝鮮で海苔製造を指導した人の話。貴重な証言だ